私の生活、意見、日本語の練習

Archive for June, 2007

反省

Posted by チャート・デイビッド on June 23rd, 2007

最近仕事に対する不満を抱いてきた。それは、哲学や歴史をしていない現実に対する不満だ。学界で続いたら、もう哲学の本を二冊以上だしただろうと思う。そして、哲学は、RPGより社会に役に立つのではないか。
だが、もう少し考えたら、これは間違いだと思う。先ず、哲学が一切役に立たないと述べる人は多い。そして、RPGに不満を抱く基本の理由は、RPGの夢をもう叶えたことだろう。自分でRPGを書いたことはないが、Ars Magicaの監督になったし、評判があるゲームの殆どのために何かを書いたことあるし、それに仕事を探す方法が出版社からの依頼を待つことになった。最近そういう方法でも仕事がちょっと多くなった。
一方、哲学に対する夢が叶わない。本を一冊出したが、受け取らなかったようだ。影響を与えなかった。そして、まだ取り組みたい問題がたくさんあるが、研究する時間はあまりない。だから、哲学がしたくなる。
しかし、哲学に専門したら、RPGの夢はまだ叶わないはずだ。だから、単純にまだ叶っていない夢に夢中になることよりほかならない。その上、哲学からお金をもらわない。家族が増えるので、収入は必要だ。できればちょっと時間をとって、哲学とも挑戦したいと思うが、良く考えたら今までの人生は悪くない。

あさきゆめみし3

Posted by チャート・デイビッド on June 22nd, 2007

源氏物語の発展が続く。やはり紫式部は上手だったし、大和和紀の絵も現代語訳も上手だ。まだ源氏物語を読んだことはない人に勧めるので、ストーリーについて詳しく書かないと思う。
実は、私にとっては、これは源氏物語の四回目だ。英訳で三回読んだことがある。英訳は二つあるのだが、Tyler氏の作品のほうがいいと思う。最初読んだら、源氏の君は全く魅力的では無かった。Tyler氏の翻訳で読んだら、源氏と紫の上の関係が分かってきた。そして、あさきゆめみしを読んだら、源氏の君が益々魅力的になる。弱点があることがわかる。それは、性欲が抑えられないことだ。その原因でさまざまな問題や悲劇が発生するが、係わりがある女性を幸せにするように頑張る。要するにただの遊びではない。
一回目読んだら、源氏の君の自己主義が目立った。二、三回目なら、源氏と紫の関係が目立った。そして、今回、源氏の慈悲が目立つ。翻訳によって、印象が大分変わる。だから、もともとの源氏を読みたくなる。だが、平安時代の日本語を勉強するのに、日本人でも時間がかかるはずなので、私イギリス人はできるかなと思う。
翻訳された文学を読んだら、翻訳者の目を通して作品を見るのは当り前なのだが、同じ作品の三つの翻訳を読んだら本当に実感する。

両親学級

Posted by チャート・デイビッド on June 21st, 2007

今日は最後の両親学級だった。パートナーも参加するように促されたが、半分ぐらい来たようだった。平日の朝の学級で、やはり難しい人もいる。始まる前に「妊婦ジャケット」を着る機会があった。それは、妊婦の形で八キロの重さのジャケットだから、来たらちょっと妻の気持ちが分かるようになると言った。実は、思ったより軽かったが、24時間は大変なのが分かる。
そして、沐浴体験もあった。本物の赤ちゃんと同じぐらいの重さの人形を使って、赤ちゃんの持ち方や洗い方を見習って、練習した。難しかった。本物が動くはずだし、泣き出す可能性も高いので、慣れるかどうか分からない。時間が経ったら、ユデタマゴが成長するので状況が変わって行くからだ。つまり慣れる時間はないだろう。
最後にパパグループにして、話し合った。ママグループが「パパへの要求」を集めたが、長くなった。やはり大変だよね。私たちがパートナーのサポートとか赤ちゃんとやりたいことについて話して、最後に質問をお互いに聞いた。やはり育児休暇をとる男性は非常に少ない。私なら、取りたいが、休んだら収入がゼロになるので、ちょっとだけできるだろう。少なくとも、出産に立ち会えるようだから、それはいい。
ゆり子が私たちのグループのプレママのメルアドを集めて、後でも連絡できるようにした。どうなるだろう。この周辺に住んでいるお母さんたちと連絡したらいいと思うので、応援する。

神道を知る講座III〜第5回

Posted by チャート・デイビッド on June 20th, 2007

今日國學院大學の神道講座に行ってきた。興味深かった。本題は、神仏習合だったが、それに入る前に教育勅語と大祓詞を合唱のように読み上げた。なぜなら、すぐに講座の受講者の一部分が(三分の二だそうだが)神社参拝に行くが、一緒に大祓詞を奏上するようだから、今回練習したほうがいいからだ。だから、講義が始まる前に教室が清々しくなったと岡田先生が言った。確かにそうだ。
さて、神仏習合が奈良時代から始まって、明治維新の神仏分離で終わったと言われているので、日本史の九割は神仏習合だそうだ。現代の状況は本当に珍しいそうだ。といっても神仏習合の形が時代の流れと一緒に変わったようだ。当初に、いわゆる神身離脱説が普及したと言う。これは、神様が仏教に帰依して、悟りを開こうとする説だそうだ。だから、神様を救うために神宮寺が建立され、社僧という僧侶が勤め、神前読経が行われたそうだ。これを見たら、なるほどねと思う。神様を生き物として見なして、仏教の救済を求めると判断する立場だ。
それから、護法善神説が現れたと言う。漢字からわかると思うが、これは神様が仏教を護る説だそうだ。東大寺の八幡神社を例として挙げようが、他のお寺にも守護神があったそうだ。
そして、本地垂迹説が盛んになった。これは、日本の神様は、実は、仏様の仮の姿だという説である。天照大神は大日如来で、天神様は観音様などの具体的な説があったようだ。だから、「権現」という神号が始まったそうだ。「権現」の意味は、「仮の現れ」だから、本地垂迹そのものを表す。「大菩薩」も神様の号になったことも、本地垂迹に基づく現象だそうだ。
この雰囲気のなかで、僧侶が神道を勉強し始めて、神道のことを解くようになったそうだ。それは、身分が低い僧侶に限らず、天台宗の首座の慈円まで及んだそうだ。この僧侶の間でも、仏教の優位に対する疑いがあったようだ。これは、鎌倉時代に起こって、次回の伊勢神道の前提になったそうだ。
講義の途中で、受講している僧侶が岡田先生の誘いに従ってちょっと発表した。ここは分からなかったところは多かった。なぜなら、仏教関係の用語や名前は多かったからだ、仏教はまだ詳しくないので、ちょっと聞き取りにくかったが、主旨は神前読経などが今も続くことだった。要するに、神仏習合が終わったことではなく、形がまた変更したという結論だと思う。ところで、この僧侶は、奈良のお寺に属しながら(興福寺かもしれないが、これもちょっと聞き取れなかった。興福寺と無関係ではないと思うが、詳しくどういう関係が分からない)國學院で神道の博士講座を受けているそうだ。
最後にちょっと熊野信仰に触れたが、平安時代以降これは神仏習合の極まりだったようだ。だから、熊野の建物がお寺に見えるだろう。
そして、もう一つな興味深いことがあった。神仏習合の時に、神様の前で仏教の儀礼が行われたが、逆に仏様の前で神道儀礼を行うことはなかったようだ。要するに、如何に「習合」と言っても、神道と仏教の格別がずっと続けたということだ。密接な関係だったが、二つの宗教の関係で残ったという。神仏分離も証拠になるだろう。曖昧なこともあったはずだが、「これは神道で、それは仏教だ」と言えた。そして、抵抗があったが、区別についての抵抗は余なかったようだ。抵抗は、分離しないほうがいいという意見だったようだ。
講座が明治維新に至ったら、神仏分離について聞きたいが、聞くかどうか分からない。なぜなら、教科書のなかで神仏分離が殆ど扱っていないからだ。読んだ時もちょっと不思議に思った。

倉庫の棚

Posted by チャート・デイビッド on June 19th, 2007

倉庫の棚が届いた。授業があったので、午後七時半ごろから整理できた。箱から取って、倉庫まで運ぶことになったが、問題があった。測り間違えたからか、棚が全て入れられない。二個は予想の通りに丁寧に入るが、もう一個はだめだ。だから、仕方なく一個を返品にして、幅がもう少し狭いものを注文する。
明日入れた棚を組み立てるつもりだが、いつ本を移し始めるか分からない。仕事の合間を縫ってすると思うが、やはり時間がかかる。

Posted by チャート・デイビッド on June 18th, 2007

サーバの統計によると、毎日このブログのトップページを読む人が40人に登るそうだ。フィードを使って直接に記事に行く人もいるようだ。毎日義務のように読む人もいるかもしれないが、皆がそうするはずはない。一回読んで、つまらないなと思って止める人もいるはずだが、読み続ける人は50人と推測したら目安としていいだろう。
謎は、なぜだ。日本語はまだ不自由だから、書きたいことをうまく伝えられない。英語のブログで書けるかもしれないが、倫理の基礎についてここで書けない。辛うじて書いても、伝えるかどうかわからない。日本についての意見も、正しく伝わるかどうか分からない。私が書く理由は、基本的に日本語の練習の為だ。毎日日本語を書いたら、どんどん書けるようになるからだ。ちなみに効いたようだが、まだ英語のように自由ではない。英語で、考えたら考えたことが画面に現れる。日本語で、まだ「どうやって言えるだろう」と考えないとできない。(それを直す為に毎日日本語を読む。どんどん日本語の言い方に慣れて行くと思うが、まだまだだ。)
だから、こういう片言の記事ばかりなのだから、何故人が読んでいる。妹は、日本語を練習するために読んでいるそうだが、それは、なんと言う、知恵の極めではないのである。こういう日本語を真似してしまったら、日本で笑われるからだ。実は、私の日本語は不自然で、日本人の考え方ではないと言われたことがあるが、それは構わない。私の考え方は、日本人の考え方ではないからだ。当然であろう。このイギリス人の考え方をちゃんと日本語で伝えられるようになるように頑張っている。
人が読んでくれるのは嬉しいが、理由が分からない。そして、多くの人に読んで欲しいかどうかというのは、微妙だ。ブログには自己宣伝の素質が強いし、私は作家で世間の視線によって繁栄と貧困が決まっているが、英語で本を書くので、日本語が読める人がブログに魅せられてくれても、本を買うわけはない。日本人に自己宣伝しても、意味はないだろう。だから、関心を集めても集めなくても構わない。
さて、止むつもりはないから、無意味な悩みだ。自分のために書いて、人が読んでもいいこと書く。ブログを楽しんでくれている人、ありがとうございます。

現代・神社の信仰分布

Posted by チャート・デイビッド on June 17th, 2007

前回の神道講座でもらった本を読んだ。この前に言った通り、平成七年ごろの神社本庁のデータに基づいて神社の包括的な信仰に分割して、信仰の分布を分析する研究の結果だ。レポートのなかで、信仰の歴史も簡単に描写されている。家の神棚に祭られている神様はトップ三で、八幡様、伊勢様、天神様だが、それに続いて稲荷様、熊野様、諏訪様などがある。
信仰の大半は東日本に強いが、天神様をはじめ、えびすさまや貴船様は西日本に強いし、荒神様は中部に偏るようだ。。やはり、神道は、地方によってかなり違うと思った。そして、こういう基礎的なデータが今年初めて集められて分析されたのは、ちょっとびっくりさせた。現代の神道は何だかというのは、だれも知らないはずだ。体験は、一つの地方に及ぶので統計的なデータが必要になる。
そして、大事な質問は何だろう。この研究は、神社の名前から主な信仰に配置したが、末社などとして稲荷神社は多いような気がする。それは、関東に限られているかもしれないが、鎮座された神様を一柱ずつ数えないと分からないだろう。そして、神様が区別できる日本人は少ないだろう。お寺と神社さえ区別できない日本人は多いそうだから、えびす様と熊野様の神徳が分かる人は非常に少ないはずだ。そうなら、信仰系統は現代の状況とほぼ無関係だといえるだろう。祭に行くかどうか、祭でどうするか、初詣で何をするか、そういう質問を世論調査で聞いたほうがいい。幸い、國學院でこの研究がもう進んでいる。
だが、やはり神道が場所によって変わるので、神社がその神社の周辺を見て、対応を決めたようがいいだろう。興味深くて、難しい問題である。