神道の信者かどうか

私は英語の神道についてのメーリングリストに参加するが、先日「なぜ神道の信者ですか」という一般的な質問があった。それを弾みとして、考えて来た、なぜというより、信者かどうかという質問について。

17歳までキリスト教だったが、それ以来無宗教だった。だが、今考えれば、神道に対しての立場が妙になったと思う。だから、ブログでちょっと考えようと思う。

先ず、実践のみを考えたら、微妙ではない。神道の信者とはいえ、熱心だ。氏神様へのお参りは、週に一回以上だし、家で神棚を設けてほぼ毎日拝めるし、神道の講座を受けるし、それにユデタマゴのために神道の儀式を執り行われてもらう。祭にも行くが、信者ではない人もそうするようだ。慎んでお参りすると心が洗われる。神社にお参りすると日常の苦悩などが忘れられる。神道は言挙げではなく、実践で芯があると言えれば、私を信者とも呼べるだろう。

そして、言挙げまで至った神道の心を語る表現を考えよう。神道の四つの浄・明・正・直は、私も大事に思う。感謝の心を持つことも重んじる。岡田先生が講座で配った記事の神道の本質を見たら、「神々と共に歩む自らの生き方を教義とし、人間本来のあるがままの個性を大切にする考え方」ということだそうだ。これにも賛成できる。

だが、深い問題があるだろう。それは、神様のことだ。先ず、古事記や日本書紀の神話が信じられない。古事記などを書いた人がそのことを知るわけはないし、科学の発見から地球や日本の創設が違ったことが分かる。開闢には、矛が関わっていんかった。だが、文字通りに神話を信じる人は少ないと言われるだろう。

一番深い問題は、神様の存在だ。本居宣長の定義に従えば、もちろん神様の存在を信じる。その定義によって、山とか滝などは神様だが、富士山の存在は全然疑わしくないので、神様があると信じる。だが、「神様がある」だ。「神様がいる」ではない。山などには心があるとか信じない。日は女神ではなく、巨大な水素爆弾だ。(ところで、比喩の話ではない。文字通り、日は巨大な水素爆弾だ。爆発中限り、地球で生き物が残れる。)超自然な存在を信じない。

誤解を防ぐために、例えよう。神さまに対しての知的な態度は、火星の生き物に対しての態度と同じだ。存在すると信じないが、存在はありえないとも信じない。火星には生物がいるというための証拠はないことだ。そして、生物がいるとしても、少なくともSFなどで描かれた生物に似ないはずだ。緑色の皮膚の宇宙人が火星にいないと信じる。火星の生物を発見したら、想像できない形があると思う。

神様も同じだ。証拠の上、信じないが、ありえないとも信じない。ただ、存在すれば、神話の神様に似ないと思う。神話の神様は、素朴で人間に準えた絵画だ。それはいないと信じる。

だから、神道の信者なのは、言い難いのだ。信じない人は、信者とは呼べないだろう。