私の生活、意見、日本語の練習

Archive for March, 2008

中世の形成

Posted by チャート・デイビッド on March 31st, 2008

日本史講座を読み続いている。第三巻は、平安時代から戦国時代までの社会変化を描写するが、興味深い点は多い。武家の政権の成立について、なぜ東アジアの他の国で起こらなかったのに日本に起こったかが論じるとか、家の制度の発生とか、古代の政権から転換したのはいつ頃かなどのテーマが扱われる。十世紀当初で政治の形が大きく変容したと述べる章も興味深かった。宇多天皇の時代はそのぐらい画期的だったのが分からなかった。
社会の構成の変化も注目すべきだろう。中世前半まで近世のような家制度はなかったことは特に気になった。11世紀までに一家という社会的な単位は、世代の夫婦を指した。母系も父系も重要だったようだから、後家(残された妻)が家の家産を司ったことは多かったようだ。別な側面から見たら、穢多の差別も中世に形成されたようだ。現代の立場から評価すれば、古代は近世よりよかったと言いたくなるほどだ。そして日本の伝統的な社会構造は、徳川幕府に構えられたようだ。伝統というのは、その前にも遡れるので「伝統だからいい」という基盤に依る人には気を付けた方がいいだろう。もっと古い伝統を見たら、家族の形態は大きく異なるし、政治的な構成も意外だと言える。
これは歴史を勉強する利点の一つだと思う。「伝統」というのは、普段「私の子供のころの状況」を指すようだ。神道の場合、明らかになる。なぜなら、明治維新で神道の変容は著しかったので明治三年からの神道は、「伝統的」とは呼べないが、もう明治以前の形が覚えられる人は少ないからだ。だから、伝統的に感じられることは、明治政府が作り出した習慣だと言える。だからといって悪いとは限らないが、「遙か昔からずっとこうだった」のは間違いだから、現状の上で論じたほうがいい。歴史の中で見える変貌が分かったら、これから社会が変わることも安心で受け止められるかもしれない。

初桜

Posted by チャート・デイビッド on March 30th, 2008

今日関東で桜は満開だね。だから、今日両親学級で出会ったいわゆる「マミーズ会」の人と一緒にお花見に行ってきた。場所は家に近い生田緑地という公園だったが、実は思ったより近かった。前に言ったことがあるが、印象は時間がかかったことだったが、実は森林公園とほぼ同じ距離なのようだ。桜の場所は丘の上だが、家から三十分以内着いた。
さて、お花見。確かに今日の天気はぴったりではなかったが、12時半までに到着したのでまだ雨が降っていなかった。結局六ヶ月前後の赤ちゃんが五人いたし、お母さんはもちろん、お父さんも四人参加した。桜の下でシートを敷いて、お弁当を食べた。ゆり子が私達の為に大変美味しい手作り弁当を作ってくれたし、配るためのケーキも作った。だから、食べるのは楽しかった。
赤ちゃんの様子も面白かった。真由喜がずっとニコニコしてくれたが、ずっと熟睡した赤ちゃんもいたし、ぐずる赤ちゃんもいた。一人はもう一人座りができたので、皆感動した。真由喜はまだまだだが、もうすぐかな。そして、真由喜とちょっと遊んだり、写真を取ってもらったり、展望台に登って周りを見たりした。帰り道で雨が降り出したので、タイミングは良かった。ちょっと濡れてきたが、お花見が充分楽しめた。奇麗な真由喜の初桜の写真もあるので、思出になる。

自由主義〜促進と抑制

Posted by チャート・デイビッド on March 29th, 2008

前述のように、許すべき行為の範囲は広いと思う。だが、許すべきだからと言って、必ずしも平等に扱うべきとは限らない。個人のレベルでも、自治体のレベルでも、国のレベルでも同じだ。自治体と国を一緒に論じたいと思うので、その先に個人レベルの状況を検描写する。
個人レベルで、自由主義の基本によって促進の自由は守られている。利益を与えたかったら、誰に与えてもいいので、促進したい行為の上で配ってもいい。抑制の方法はもう少し限られているかもしれない。基本的に、利益を与えないことができるが、損害を与えることはできない。だから、会員権を剥奪するのはいいが、罰金を課すのを避けてほしい。利益のために条件を作ってもいいが、損害を避ける為の条件は、自治体のレベル以上に限りたいと思う。法律や民主主義は重大な要素だからだ。
さて、自治体レベルについて考えよう。促進は、個人レベルと同じくできると思う。ただ、選択の自由の記事で述べたように、促進する行為は、選べる行為に限るべきだと思う。生まれながらのことはもちろん、過去のことを促進するべきではない。だから、制度が設立した後で人ができることを促進したら良いと言いたい。定義を定めるのは難しいが、概念は明らかだと思う。
一方抑制も政府の義務だと言える。抑制と言えば、禁止に及ばない方法が使えるだろう。例えば、ポルノは良くないと判断したら、表現の自由の為に禁止できない。一方、ポルノの消費税を50%に設定してもいいのではないか。10,000%の消費税なら、禁止と等しいと言えるが、50%なら欲しい人はまだ買えるので、作りたい人がまだ出版できる。だが、出版する状況がちょっと厳しくなるので、量が減る可能性はたかいと推測できるだろう。同じようにお酒の消費税や関税を100%にしたら、飲んだ量が減るはずだ。100%以上の税金は、禁止することに近づくので気をつけるのは必要だが、税金そのものは禁止だとは言えない。
税金はいい方法だといえるだろうが、唯一の方法ではない。例えば、許可得ずに何かするのを禁止してもいい。ただ、許可をもらうには、手続きのみが必要なのは条件だ。拒否できれば、それは禁止の種類だ。ただ、許可を簡単に得られなくても禁止ではない。例えば、本人が特定された事務所に行って、申請して、ある程度の手数料を支払う手続きでもいいだろう。さらに、事務所を小笠原諸島で設けてもいい。そして、申請したら、一ヶ月後事務所に戻って指導を受けて、さらに一ヶ月後事務所に戻って許可を得るパターンでも禁止ではない。だが、気軽にする人はいなくなる。(実は、外国人の再入国許可はこの形だ。手続きのみは必要だが、ちょっと手間がかかるので、日本を出ない外国人もいるだろう。日本の政策は、本当に国の中に在日の外国人を残すことだろう。)
ここで慎重するのは必要だ。許可を得る方法を大変難しくしたら、課税を重くしたら、禁止に等しくなるだろう。それは、最高裁判所が結局決めることだが、行為がまだ現実的にできる程の手続きや税金は大丈夫だと言える。小笠原での事務局はちょっと大げさかもしれないが、一回許可得たら終生できる形になったら、いいだろう。毎年必要としたら、手続きをもう少し簡単にした方がいい。小笠原諸島へ三回行くのは手間がかかるからだ。
政治家や政府や宗教や業界の指導者の批判を抑制することもすべきではないと思うが、これはもう一つの段階になる。そして、禁止されない場合、ちょっと厳しくしても深刻な問題にならないと言える。政府に対して強い不満を持つ人は、許可を得るからだ。一方、宗教を抑制してもいいだろう。抑制しない宗教もあってもいいが、宗教を他の行為と同じように扱う方針を取ったら、抑制したほうがいい宗教があるのは可能だ。ただ、禁止するのは難しいだろう。表現の自由、利益の自由、選択の自由で殆どの宗教の信者になれると思う。禁止と等しい抑制は、この範囲でも禁止される。差別も同じだ。利益を与える場合、差別を禁止するのは、禁止だ。だが、抑制するのはいい。
だが、このような問題は、平等と公平の問題と関わるので、後でもっと詳しく論じたいと思う。

果物

Posted by チャート・デイビッド on March 28th, 2008

最近産直の果物ボックスを受けることになった。毎月一回千円のボックスが届くが、珍しい果物が入っている。だから、毎月新しい経験がある。それは面白いが、果物と果物の名前を合わせるのはちょっと大変だ。ボックスと一緒に説明書が届くが、写真は小さくて白黒だし、本物は自然生産だから、写真とちょっと異なる場合もある。確かにみかん、イチゴ、バナナだったら、私たちさえできる。ただ、今月の果物は14個でオレンジやみかんの六種類だった。区別を付けるのは本当に大変だった。結局ゆり子がインターネットで検索して、大きい写真や詳しい説明が載ったサイトを見つけた。
幸い、私はオレンジ系の果物が大好きだから、試食を楽しみにしている。種類別で味が覚えられるかどうかは不安だが。

睡眠

Posted by チャート・デイビッド on March 27th, 2008

今朝いつもの通り六時半に起きたが、7:15にシャワーを浴びようとしたときにその代わりにベッドに戻った。そして、ゆり子が真由喜と一緒に起きて、私を一人にしてくれた。あれから3時間ぐらい眠った。やはり最近ちょっと寝不足だったね。フリーの仕事の利点の一つは、この状況になったらこういうふうに寝られることだね。仕事に着手するのは正午でも、首にならない。
ところで、真由喜は元気だ。声の練習をよくして、叫んでいる。今朝も真由喜の叫び声を時々聞こえた。それでも、眠れたので、やはり疲れた。真由喜が言葉を出すのを楽しみにしている。

はいはいの練習

Posted by チャート・デイビッド on March 26th, 2008

一昨日から真由喜がはいはいの準備を始めたようだ。腕で上半身を上げたり、足をお尻の下に置いて下半身を上げたりする。上半身はかなり上手になったが、下半身はまだまだだ。そして、動きはまだ思わずに後ろに進むことしかない。だが、訓練は大事だから、応援する。確かに動けるようになったら面倒を見るのは益々大変になってしまうが、一緒に遊ぶのは益々楽しくなると思う。楽しみ!

自由主義〜子供の問題

Posted by チャート・デイビッド on March 25th, 2008

子供は、自由主義の立場から考えたら、問題だ。実は、ふたつの問題になる。
比較的に簡単な問題は、幼い子供を自由にするわけにはいかないことだ。赤ちゃんを自由にしたら、死ぬ。「さぁ、コンセントを食べよう!」と思ったり、「道路の真ん中で遊ぼう」と思ったりすることは多いからだ。そして、学校に行きたくない子供は多いが、学校に通わないと、将来が暗くなるので、強制的に通わせるのは必要だ。この問題は、成人の年齢を設定することで解決できると思う。ただ、一つの成人年齢は単純過ぎるだろう。ほとんどの国では、ちょっと分かれている。例えば、就職するのは、日本で十五歳からだが、お金を借りるなどは二十歳からだ。年齢について理論できると思うが、基本的にこの方針はいいと思う。言った通り、比較的に簡単な問題だ。
もう一つの問題は、子育ての問題だ。子育ての方法を選ぶのは、親の自由の重大な点だが、子供は親と別な人間だし、上に述べた通り自分で決められない。政府は、どのぐらい親子の間に関与すべきかは問題だ。幼児虐待を防ぐのはいうまでもないが、「幼児虐待」というのは、何だろう。明らかな例はあるが、「子供に損害を与える」と定めたら、宗教的な教育を禁止することになる。なぜなら、宗教には嘘はたくさんあるが、嘘を本当として教えるのは損害になることだ。これを禁止するのは、政府は必ず正しいという強調だから、避けたいと思う。そして、幼いころからスポーツに専念すれば、芸能界に入れば、後で肉体的に、精神的に問題になると言われるが、禁止すべきのだろうか。
子供を守りたいし、できるだけ親にも自由を与えたいので、慎重に考えたほうがいい。先ず親が教育を独占するのを禁止すべきだと思う。選択の自由を保つために大人になってからも普段の教育が受けられることになることはもう決めたので、子供のころに他の意見や生活の存在が知ったら、大人になって自分で決められると思う。これは、親は、教えないほうがいいことは子供に無理矢理教えることになるが、それは仕方がないと思う。一方、親の自由を保つために国も教育を独占しないほうがいい。そして、教育の最低限を強いてもいいかもしれない。ただ、これは内容より方法を中心にしたほうがいい。文字を教えるのは義務付けにしてもいいが、国史を教えるのは、義務付けないほうがいい。なぜなら、内容まで指定したら、国の方針のために子供を利用ことになりがちだからだ。
だが、親が子供にダンスをさせたり、囲碁をさせたり、数学をさせたりする行為をどうしよう。たぶん、ここで「大人になったら、自分で別な道が選べる限り、許す」方針がいいだろう。だから、ほとんどの人が子供の時代が無駄になったと思っても、親の方針を許したほうがいい。宗教的な環境で育てるのは、よくこの範疇に入ると思う。同じように芸能界を目指す親もこの例になるだろう。最適な育て方と思えないが、自由主義は、そういうことを許す方針だ。ただ、子供のひどい障害になる生活を禁止すべきだ。子供のころ毎日数時間ピアノの練習しても、文字などは大丈夫なら大人になったら数学者に転職できるだろう。
そして、この範囲にも子供に自由を段々与えたほうがいい。例えば、十二歳から親が反対しても公立中学校に通えることなどしたほうがいいのではないか。確かに子供がどれほど親の影響から抜き出られるのは問題だ。しかし、社会的に可能性を認めたら、親の行為に抑制になるだろう。子供もそのころ積極的に参加したかったら、許すべきだ。顧みると、私の十代には無駄になった時期は少なくないが、それは仕方がない。
明らかにするために、暴力は、普通の法律によって禁止される。それは、厳しく守って欲しいのである。暴力なしに子供が育てられなかったら、もう親としての失格だ。