宝塚と異性愛標準主義

異性愛標準主義とは、私が作った日本語だ。欧米で使われている「heteronormativity」の和訳として使うつもりだ。異性愛標準主義というのは、異性愛を標準として、自然として考える態度や社会的な姿勢を表す。異性愛標準主義の具体例は、独身な女性と話せば、「彼氏がほしいでしょう」と言ったり、家族を想像すればお父さん、お母さん、そして子供たちを想像したり、恋愛映画で異性愛のカップルを描写したりの行為。これは当然であると思うかもしれないが、その反応こそは異性愛標準主義だ。

欧米の一部で、異性愛標準主義を拒否する動きが現れた。同性愛や典型的な男女カップルと違う他の生き方を変なこととして考えずに、ただ単に異なる普通の選択肢として考えようとする方針だ。そして、異性愛標準主義に反する文化や芸術を評価する。

その一例として、宝塚を掲げることもある。(歌舞伎も重要な例だが、ここで宝塚について論じたいのだ。)宝塚で恋愛物語を演じるが、男性は女性の男役によって演じられるのは周知の通りだ。つまり、恋愛の演技は女性同士であるので、異性愛標準主義を支えない。ただし、最近の研究で異論が浮上したようだ。

宝塚でも、演じられる物語は異性愛の恋愛物語である。それに男役が積極的な役割を担って、女性を演じる女性は消極的で可愛い姿勢を見せると言う。つまり、典型的な男女の役割分担を擁護すると主張する。これは認めざるを得ない。私が知っている限り、演じられる物語はその通りだ。

それでも、役者は皆女性であることで、単純に異性愛標準主義を支えるとは言えないだろう。

個人的に、異性愛標準主義が弱まると良いと思う。なぜならば、そうなったら同性愛者がより気楽に自分の好みを追えるようになるからだ。実質的な自由を増すために役立つことだ。同性愛を合法にするなどの具体的な政策は必要だが、芸術などでの同性愛の描写も重要であると言われる。

だから、宝塚でもう少し直接に異性愛標準主義を攻撃する公演は良いのではないかと思ってきた。一つの可能性は女性同士の恋愛だが、それは直接で、ちょっと宝塚のイメージとあわないだろう。(宝塚に詳しくないので、毎年そのような演目があるかも。)しかし、男性同士の恋愛は別だ。

まずは、日本の歴史には男色という習慣があって、江戸時代の物語でネタは見つかるはずだ。そして、男性同士の恋愛相手は、二人とも女性によって演じられれば、異性愛標準主義を攻撃するが、間接的だ。役者は演技をしている。男性の同性愛者ではないのは明らかだ。それでも、同性同士なので、異性愛標準主義からはっきり逸脱する。その上、宝塚ファンにも魅力的なのではないかと思う。主なスターは男役だからだ。

実は、この記事のきっかけは、先日北川景子さんが公開した投稿だ。素敵なCMの写真や感動的なセーラームーンの同窓会の話の下では、宝塚の話がある。(ところで、セーラームーンの同窓会は感動的である理由は、先ず10年が経っても皆が集まることだし、そして北川さんの「東映の名に恥じぬよう精進しよう」という宣言である。さぁ、軌道に戻ろう。)その話で、宝塚のスターの壮さんから愛の言葉は聞きたいと北川さんが述べたが、前の投稿で男役と挑戦してみたいとも述べた。だから、特別に北川さんを組み入れて公開したらどうかと思った。北川さんには同時二つの願望が叶うし。宝塚で難しければ、最近宝塚から引退した方と共演しても良いだろう。

それはともかく、と書いたら、この投稿を全体的にともかく。提案まで至らないので、ただの遊びにとどまる。


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