私の生活、意見、日本語の練習

Archive for the '大山街道' Category

池尻稲荷神社

Posted by チャート・デイビッド on February 18th, 2010

大山街道の次の神社は、池尻稲荷神社だった。かなり広い境内を持つ神社で、看板によると旧池尻村の産土神だそうだ。
明暦年間(1655〜1658)に鎮座されたそうだから、江戸の早期からあった神社だ。お稲荷様というのは、言うまでもない稲の神様だが、商売繁栄の神様にもなって、江戸で大人気だったそうだ。だが、現在の状況にはちょっと珍しい側面もある。社殿の写真に伊勢の神宮の式年遷宮の幟が見えるが、それは神社本庁が所属神社に頒布するものだと思う。それに加えて、社頭に置いてあったチラシのなかに、伏見稲荷大社が刊行した情報誌もあった。
それはなぜ珍しいかというと、伏見稲荷大社は神社本庁に属していない神社で、普段は伏見稲荷大社に属する神社は神社本庁に属しないと思ったからだ。それはまだ普通だと言えるかもしれないが、少なくとも池尻稲荷神社は例外だ。
ご存知の通り、明治時代に所謂社格制度があった。一番上は伊勢の神宮だったが、特別で社格はなかった。社格の一番高いのは、官幣大社だった。下の方に「村社」という社格があった。池尻稲荷神社が村社になったようだが、入り口にある石碑にそれを刻んだ。だが、戦後その社格制度は廃止され、神社が独立して宗教法人になった。写真から見えるように、石碑に刻まれた社格は、後で削られ隠そうとされた。こういう風に神社の名前を表す石碑は多いが、これで初めてわざわざ社格を消去された石碑を見た。なぜそうされたか分からないが、神社神道の歴史の一部が見える石碑だ。
神社の歴史には、大山街道の辺りにあったことは重要だったようだ。境内にある看板によると、旅人が参拝したので、神社の特に盛んになったそうだ。それにちなんで、旧大山街道に面する入り口で、旅人の銅像がある。なぜ子供の銅像になったか分からないが、この稲荷神社は「子育て稲荷」としても崇敬されたそうだから、それと関係があったのだろう。ちなみに、「火伏稲荷」とも言われたそうだが、火事は大変恐ろしい存在だった江戸で、火伏の神徳がある神社は少なくない。
境内には井戸があるそうだし、その井戸は霊水だと言われる。だが、帰ってから案内板を写真で読んだ時に分かったことだから、現場で井戸を見なかった。その霊水の資格は、伏見稲荷の託宣によるものだそうだが、詳しいことは分からない。やはり、どこの神社でも、このようにちょっと明らかではない歴史などがあるはずだ。私も、旅人だったので、表面しか見えなかった。

宮益坂の御嶽神社

Posted by チャート・デイビッド on February 13th, 2010

大山街道をちょっと遡って、渋谷の宮益坂に鎮座する御嶽神社(みたけじんじゃ)を紹介したいと思う。この神社には、三つの興味深い点があるが、社務所の定休日だったし、あまり問い合わせする余裕はなかったので、本当の経緯が分からない。
御嶽神社は、高層ビルの隙間に入っているのはいうまでもないだろう。宮益坂郵便局の隣に鎮座して、風景の写真から分かるように閉塞感がある空間だ。道から階段を登って、神社に至る。だが、境内を見たら、ビルの上にあるように見える。つまり、屋上の神社に見える。しかし、國學院で聞いた神社本庁の原則は、神社は「土の上、空の下」という状況だ。だから、本当に屋上だったら、神社本庁に認めてもらわないはずだ。だから、神社本庁に属していないか、それとも見た目と違って、実は廻りに掘り削られた丘の上に鎮座するだろう。
そして、境内には不動尊が堂々と祀られる。ご存知の通り、神仏分離令で仏教の色があるものを神社の境内から出す義務が課された。そうなら、なぜここにあるのか。案内板によると、延宝9年(1681)からあった不動尊だそうだから、戦後に鎮座されたわけはないだろう。80年間別なところで保存され、渋谷の開発の内にここに遷座された可能性もあるだろうが、もう一つの可能性を見つけた。
神社での案内板によると、明治天皇が御嶽神社で休憩したことがあるそうだ。これは、明治3年、つまり1870だった。神仏分離はまだ完全に遂行されていなかっただろう。そして、明治天皇が不動尊に参拝したら、取り除くことが難しくなるだろう。だから、境内の外に移したら、神社に近くても問題にならなかったかもしれない。
理由はなんと言っても、また神仏習合の名残がある神社だ。
最後に、狛犬のことだ。写真で明らかだが、狛犬は本当に犬、または狼、に見える。これは珍しい。神社に参拝したことがあったら、狛犬は架空な動物で、ライオンに似ているのは普通だ。稲荷社では狐がその役割を担うし、日枝神社で猿が狛犬の役割に就くこともあるが、犬や狼は別だ。御嶽神社は普通岐阜県の御岳山系の神様だが、祭神についての案内板はなかったようだったので、この神社の場合がどうなるか分からない。だから、祭神の使いは狼だという可能性があるだろう。
この御嶽神社は有名な神社ではないと思うので、神社には強い個性があることをまた実感した。実は、大山街道沿いの神社に参拝しながら、個性的な神社ばかりだったような気がした。どこの神社でも同じだろう。神社神道は均一された宗教ではないことは明らかだ。

上目黒氷川神社

Posted by チャート・デイビッド on February 9th, 2010

先月大山街道を歩いた時に、通り過ぎる神社にお参りしたので、ブログでの紹介を続けたいと思う。今回は、上目黒氷川神社だ。
一番上の写真から見えるように、丘の上の神社で、もうビルに囲まれた。だが、境内に辿ったら、かなり広くて、空の見えた。本殿には須佐之男命が祭神として祀られているが、境内社もあるし、浅間神社と稲荷神社もある。
神社の建立は、看板によると天正年間(1573−1592)だそうだ。神社として、特に古くはないが、東京の地方でその時期に建立された神社は少なくないようだ。徳川家が江戸に入城した時期だからだろう。それまで、江戸はマイナーな街だったが、17世紀に入ると一変変わったので、神社も鎮座された。ところで、ご存知の通りだが、氷川神社というのは、さいたま市の氷川神社と関わる関東に限る系統の神社だ。「氷川」というのは、島根県の「斐川」の当て字だと言われるし、島根県の斐川は、須佐之男命と八岐大蛇の神話で出てくるので、説得力がある説だ。
本社には、天照大神と菅原道真も祀られている。天照大神と須佐之男命は関連する神だし、それに特に明治時代に天照大神の信仰を普及とする動きがあったので、いつ合祀されたか驚くほどはないが、菅原道真、天神さん、は、もう少し珍しいだろう。明治45年に北野神社と合祀されたそうだから、明治時代の神社リストラの名残なのようだ。これも、珍しくない現象だ。明治政府が神社神道に大変な損害を与えたとも言えると思わざるを得ない。
境内から表参道で下りたら、古い石段を使う。看板によると、文化13年(1816)に建設され、明治38年(1905)に改修されたそうだから、もう二百年ぐらい努めたようだ。階段を下りると、都会に入って、複数の道路が重なるくらい道に戻る。だが、石段の下には天保13年(1842)の大山街道の道標があるので、歴史の道からまだ離れていないことが分かる。

豊川稲荷東京別院

Posted by チャート・デイビッド on January 20th, 2010

大山街道の出発点に近い豊川稲荷。実は、神道の範疇に入れたのに、正式にいうと曹洞宗のお寺だ。本尊はだきにしんてんという。もともとの豊川稲荷は、愛知県にあるお寺だが、この別院は明治時代に建立されたそうだ。
お稲荷さんといえば、神道だと思う人は多いだろう。確かに、現代のお稲荷さんを祭る施設の大半は神道に属する神社だ。じつは、圧倒的に神道の方に傾くとも言える。だが、江戸時代に遡ったら、ご存知の通り所謂神仏習合が日本の宗教の基本な形だった。豊川稲荷はその名残だと言える。だきにてんは、仏教の神話でもともと夜叉だったが、仏教を擁立するようになった。(仏教の神話には詳しくないので、経緯を書かない。)絵画で白い狐に乗る図は多いが、それが稲荷との習合のきっかけか、結果かは不明だそうだ。江戸時代に、普通の稲荷社には仏教の色は濃かったようだから、この豊川稲荷のように見えただろう。
だが、明治維新で神仏分離があって、宗教施設は、神道か、仏教かとはっきり決める必要が生じた。稲荷の施設の殆どが神道にしたが、例外があった。これは、その例のひとつだ。戦前に正式に神様は祭られていないはずだが、戦後の宗教自由に伴ってまた現れたようだ。境内に鎮座する神社は、本堂とほぼ同じ規模で、参道も幟で目立つ。だが、神殿のなかに見たら、仏教的な飾りがあるし、本堂から聞こえるのは、祝詞ではなく、お経だ。狐の石像は多いし、鳥居がついた祠も少なくないが、一方観音も地蔵もある。そして、神社のところの後ろに七福神の石像が並ぶ。仏教というより、やはり神仏習合そのものだ。
参拝者はまだ多かったが、違和感なく参拝したようだ。確かに現代の日本人には神道の施設と仏教の施設を見分ける能力はあまりないので、違和感を感じるはずはないだろう。私にとっては、江戸時代の神社やお寺はこのような雰囲気だったのかという感じだった。

伊勢丸稲荷大明神

Posted by チャート・デイビッド on January 13th, 2010

大山街道でお参りした神社を紹介する。今日は忙しいので、小さい神社を短く紹介するが、設定はちょっと面白い。神社の正面には朱塗鳥居があるが、写真で見えるように直前にはコンクリートの塀がある。神社は南向きで、神殿の前に鳥居を建てる計画だったようだが、神社の南側は駐車場で、入り口にならない。入り口は左側にあって、より古く見える石鳥居があるので、そもそも入り口は西側からだったかもしれない。
小さな神社なのに、幟も多いし、奇麗に保たれたので、周りには氏子がいると推測する。ご祈祷などは神社で執り行えないだろうが、周辺には他のお稲荷さんがあるし、担当する神職がいれば、近所の神社に属するはずだ。
ちなみに、この周辺で大山街道がちょっと国246号から離れて、中里通りという道路になる。ちょっと休憩のような気分だった。三軒茶屋と駒沢大学の間にある。

大山街道:赤坂〜玉川

Posted by チャート・デイビッド on January 11th, 2010

去年の誕生日に妹から『ホントに歩く:大山街道』という本を貰った。だから、今年の目標の一つは、本当に大山街道を歩くことだ。今日、始めた。
大山街道は、江戸時代の街道で、江戸から大山までの道だ。ご存知の通り、大山には修験道場があったが、現在の阿夫利神社だ。だから、最後の目的は、大山だ。一日で最後まで歩けないのは言うまでもないので、分けて歩くつもりだ。だから、今日赤坂御門の出発点から玉川まで歩いた。途中で渋谷での寄り道があったし、溝の口への往復も歩いたので、合計25キロ以上あるいたと推計する。だから、今足は疲れて、ちょっと痛くなった。明日の筋肉痛を予想できるので、明日出かける必要はないと思うので、大丈夫だろう。
途中通る神社にお参りしたので、今日神社に七ヶ所お参りした。神社のことは、別な記事で写真付きに紹介する。今日の話題は、道にする。
予想できると思うが、街の道ばかりだった。コンビニなどは便利だったが、奇麗な景色や澄んだ空気はなかったとも言える。とは言っても、面白かった。
一つの理由は、よくお世話になる田園都市線の地上ルートにほぼ沿って歩いたことだ。やっと上の街の風景が分かった。降りたことがあった途中の駅のあったので、「なるほど」の場合もあったし、新鮮な風景もあった。
東京を歩いたら、街の風景が変わる。赤坂から表参道まで、モダンなおしゃれな風景だ。渋谷周辺はもう少しごちゃごちゃして、計画はなかったように見える。大橋から駒沢大学まで、三層道路になるので、暗くてうるさい。駒沢大学を出たら、郊外な感じになる。そして、用賀を過ぎたら、本当に細い裏道に歩くことになって、もう都会ではない雰囲気だ。
江戸時代の大山街道の面影はないと言っても過言ではないが、現在の東京の状態がもう少し分かったような気がする。距離は、足で知ったので、これからも東京の規模が分かるはずだ。結局家から出たときから帰った時まで、8時間半がかかったので、筋肉痛は驚くべきではないだろう。だが、今痛くなっていつるな。
一月に一回歩くつもりだから、次の分は来月になる。