私の生活、意見、日本語の練習

Archive for the '本' Category

巫女さん入門〜初級編

Posted by チャート・デイビッド on October 23rd, 2008

この本もタイトルから内容が分かると思う。東京にある神田明神によって編纂された本で、神田明神で行われる巫女さん入門講座の書籍化だ。私が買った理由は、今書いている作品には巫女になる主人公があるので、巫女には何が教えられるか確認したかったからだ。その目標に十分役に立ったと思う。(後書きには「アニメにある超能力を持つ巫女さんと本当の巫女さんが違うことがわかっただろう」と書いてあるが、私の作品もある意味超能力を持つ巫女が出てくる。まぁ、私が書く作品はファンタジーだから、当たり前だろう。)
だが、この本の良さは、その目標を優れると思う。神道の入門として、今まで読んだ本の家に一番だと思う。
この本で、「言挙げせじ」というのは、神道の特色の一つとして挙げられている。だが、他の読んだ神道入門は、言挙げばかりだ。書籍を考えたら当たり前だが、言挙げせじは本当に神道の特色だと思うので、そういう立場から神道を論じると、入門としてちょっと問題があるのではないかと私が思わざるを得ない。一方、この本の基づいた講座には実践は重視されたようだ。勿論基礎知識が書いてあるが、本の中心は神社の作法や祭りのやり方だ。つまり、参拝する方法、二礼二拍手一礼の作法も、祭りのことや神棚、供え物などの説明は丁寧に掲載される。
だから、この本を読んだら、現代の神道の基本が分かってくると思う。参拝などができるようになるし、人生儀礼のことも分かる。これは神道の全てではないが、基礎として古事記の神話の粗筋よりいいと私が思う。確かに入門の次の一歩は神話などだと言えるかもしれないが、次だ。(実は、古事記の神話の前に全国の神社の実践などをちょっと学んだほうがいいと思うが、なんと言っても古事記の神話を比較的に早めに修めなければならない。)
一つの面白い点だある。元の講座は、一日中の講座だから、半ばに昼食がある。だから、本の真ん中に食事の作法の章がある。これは基本ではないと思うが、確かに巫女さん講座の昼食には必要だ。だが、ここに賛成できないポイントがある。それは、食べながら会話すべからずとの戒めだ。私は、逆に食べながら会話すべきだと思う。家族や友達との仲を深めるための相応しい機会で、見逃すわけにはいかないと思う。
こういう点で相違があるので、やはり神田明神の巫女さんになれない。
えっ?もう一つの阻害がある?外国人であることだろう。確かに、本に「日本人の」と書いてある。何?その「の」の次は?
あっ、そうだ。では、神職しか残らないだろう。

神社祭祀関係規程

Posted by チャート・デイビッド on October 19th, 2008

また神社本庁が発行した神職向けの本を読んだ。今回は、祭祀規程の本だから、神社の祭りの行い方は詳しく説明された。
ちょっとびっくりしたのは、本当に細かいところまで定められていることだ。祭りの次第だけではなくて、歩き方、立ち上がり方まで規定がある。イギリスの国家協会で、祭りの次第は定められたが、身振りは慣習によって左右されたような気がする。
私が読んだのは、平成二十年改訂版だが、やはり神社本庁の発足以来二回大きく改訂されたようだ。それは現実と時代の情勢に合うためだというので、それはいい方針だと思う。中心のことを保ちながら、時代に合わせたほうがいいのは否めないだろう。そうしないと、どんどん時代遅れになって、支持を失うからだ。
だが、内容を読んだらやはり考えさせられる。統一を強いることは、一概に悪いとは言えないが、このぐらい統一するのは必要なのかという疑問だ。祭りの次第のところに「神社の故実があったら、それに従うことだできる」との附記があるので、神社の特色を規程の中で保つ可能性がある。一方、作法を定めたら、神社神道が一つの宗教や伝統に見える。言葉を挙げない神道では、この作法の統一化でしか表せないだろう。バランスは重大だから、外から見る素人として当たっているかどうかは言えない。
規程を読んだら、大変厳しい印象を受けるが、氏神様の白幡さんを考えたら、川崎市指定文化財の禰宜舞は規程に定められた祭りの枠外に行う。そういう風に工夫しても良かったら、問題はないはずだよね。

日本の政治

Posted by チャート・デイビッド on October 14th, 2008

今回読んだ本は日本の政治の構えを紹介する本だ。「面白いほどよく分かる」というシリーズの本だが、よくわかったかな。確かに国会などの構造を知ったし、選挙の形がやっと明らかになった。国会議員の収入はかなり高いね。2000万円を超えるそうだ。様々な経費もあるというが、それがあっても2000万円の他経費ももらうそうだから、貧乏になる恐れはあまりないだろう。
そして、日本の政党の経緯と政策が大まかに分かった。自民党と民主党を区別するのは難しいと思ったが、やはりそうだよね。政策を考えたら、そんなに大きく異ならないようだ。総選挙が来たら、政策のマニフェストが読みたいと思うが、今なら背景がちょっと分かると思うので、ちょっと読みやすくなるだろう。
そういえば、一つの書かれていない点があった。衆議院議員の任期はどのぐらいなのかという点だ。参議院議員の任期はちゃんと書いてあるが、衆議院議員はない。それは、満期にならず解散されるのは普通のパターンだからだろう。
ちょっと印象的な点は、この本が基本的に批判的な立場を取ったことだ。官僚も閣僚も普通の政治家も地方政治も批判した。確かに日本の政治には問題があるが、問題はない国はこの世にないと言える。少なくとも、イギリスの政治には問題もあるし、アメリカの政治も完璧ではない。入門のような本で批判しないほうがいいかなと私が思う。まず、基礎知識を身につけて、そして自分の知識を活かして意見や批判を発想したほうがいいのではないか。
それを置いといて、私と関係ない本とも言える。有権者ではないし、国家レベルの政治に手を出すことも法律上禁じられたそうだ。もちろん、税金などを納めないと行けないが。とりあえず分かった方がいいね。参加したくなったら、帰化する手続きを検討する必要があるだけだ。

神社有職故実

Posted by チャート・デイビッド on September 29th, 2008

また神社本庁発のISBNもない本を読んだ。この本は、神社にある物についての説明だ。建物ではなく、御簾、狛犬、ご神体、大麻などのことは紹介される。興味深い。
殊に本殿の中にあるご神体の装飾や御座の構えも描写され、説明される。普段は本殿の中の状況が見えないので、分からなかったことが分かってきた。ご神体を包んで、箱に入れるのは普通だそうだが、ご神体は影像である場合、特に彫刻である場合、包めるかどうかは疑問だ。そして、如何に神社本庁から着た人でも、神社の本殿に入る訳はないので、どのぐらい現実に当たっているかも疑問だ。勿論、遷座するときに新しい本殿の内装が分かるが、かなり古い神社もあるし、その神社の固有伝統も保つはずだから、例外も多いかなと私が勝手に思った。描写された形は基準だというのは、疑わないが、隠れたことの現実がいつもちょっと気になるね。だから吉田兼倶が「秘密は敬虔を促すためだ」と言っただろう。
最後に装束の説明があったが、それは装束の本の略式だった。(著者は同じ人だし。)楽器の章も興味深かった。神道の楽器は殆ど中国から伝わったものだそうだし、平安朝の時代から使われたそうだ。だから、明治維新で復古をしたときに、雅楽はなぜ維持されたかはちょっと謎だ。平安時代以前からの習慣を、神仏習合を始め、排斥したが、同じ時代からの伝統を受け取ったことだから、長い伝統からただ好ましいことを選んだのではないかと思わざるを得ない。
この本によると、神社の伝統を継承するのは大事だそうだが、それと言っても詳しく定められたことは多い。そして、このほとんどは明治時代からのことだ。江戸時代に圧倒的な支配力を握った吉田家の伝統は払拭されたことは周知の通りだから、仏教のことを除いても明治維新が神社の伝統を尊敬したとは言い難いのではないか。その上、中央に据えた神社界の伝統は、即ち神宮の式年遷宮は、百二十年以上中絶されたことは認められた事実だ。明治維新は、まだ百五十年前の出来事ではない。だから、明治維新の変更から遡って、その前の神道の形から示唆を承けて、神社毎の伝統を作っても、神道の伝統を継承することなのではないだろうか。

ある日突然、警察に呼び出されたら、どうする・どうなる

Posted by チャート・デイビッド on September 23rd, 2008

タイトルは長いね。
この本を買ったら、ゆり子に見せたがびっくりして「なぜそういう本を買ったの?」と聞いた。理由は二つある。
まず、犯罪を犯すつもりは全くないからこそ知っておきたいのだ。逮捕されたら、本当に突然になるので当時に準備する可能性はない。そして、間違えて逮捕されたら、どうやって反応して冤罪まで落ちないようにしたらいいか知りたいだろう。取り調べに応じられないので、法律上の義務や権利が分からないなら大変なことになってしまうかもしれない。
そして、私はイギリスで生まれ育ったので、常識が違う。例えば、イギリスの常識は、逮捕されたら電話もできるし、取り調べは必ず録音されるし、警察署に着いたとたんから国選弁護士が提供されることなどある。これは全て日本で間違いだそうだ。国選弁護士は、四日目からだし、重大な犯罪に限られているようだ。録音などは殆どないそうだが、それは本当にびっくりした。そして、警察官の圧迫で容疑者が嘘の自白することもあるようだ。イギリスにおそういうことがあった。特に20年前に大きなテロ事件があって、十人が逮捕され、起訴され、有罪になった。イギリスには死刑はないが、裁判官が「死刑があったら与える」と言った。だが、全て冤罪だった。自白は警察官の圧迫で強制的に作られたし、他の証拠は警察官の捏造だったので、十五年後控訴になって、無罪の判決は出された。それ以来、録音は義務づけになったそうだ。弁護士の件で、イギリスのアドバイスは、逮捕されたら即座弁護士をいらいしろということだ。日本もそうだそうだが、より難しいようだ。
一方、イギリスで裁判官の許可なしに警察が逮捕できるし、裁判所で拘束延期の許可を請求するのは一週間以上だから、イギリスのほうがいいなどとは言えない。裁判員は今日本にはないのはちょっと驚いたが、それはイギリスで千年以上その制度が続いてきたからだ。常識が非常識になるね。
つまり、勉強になった。ニュースで聞く表現(再逮捕とか、書類送検など)の謎も解かれたし、今住んでいる国の構成がもう少し分かってきたような気がする。

装束と衣紋

Posted by チャート・デイビッド on September 17th, 2008

これはまたアマゾンで扱われていない神社本庁刊の神職要請関係の本だ。この本は、神職の装束についての本だ。「衣紋」というのは、装束の着せ方ということだそうだ。なんで「紋」の字が出てくるか私には分からないが、きっと語源には理由があるはずだ。
さて、内容は装束の詳しいことだ。普段祭祀で着るのは「狩衣」という装束のようだが、これもかなりややこしいと思う。祭祀はない場合、下着(というより、小袖)と袴を着ていると思うが、袴から神職の階級が分かるのは面白い。下級の神職はよく見る水色(浅黄というが)の袴を履くが、もう少し上なら紫色で、また上で紫で藤の丸の紋がある袴、そして一番上なら白くて藤の丸の紋がある袴だそうだ。一番上の模様を見たことがないような気がするが、その下をみたことがある。
そして、女性の神職の装束だが、「色目適宜」ということもある。(袴は男性と同じだが。)これは事実にどうなるかはちょっと気になる。一番フォーマル正装の場合に許されているし。
衣紋の報でちょっと驚いたのは、装束を着るときにまずは下着の小袖だというのは当たり前だが、次は冠や烏帽子だそうだ。私の常識には、冠るものは最後になることだが、やはり神社で違います。ただ、烏帽子だけではなく、単も袴のまえに着せるようだが、神職が祭祀の準備したら、袴をまず脱いで、そして烏帽子を冠って、単を着て、それからまた袴を履く。。。はずはないよね。本の原則と異なる現実があると私が推測するが、間違えているだろう。
ところで、本の序で「裝束の正しい著方を出來るだけ判りやすく纏めることにした」とかいてあるが、古い仮名遣いもふるい漢字も使われている。「當」と字は、「当」の意味のようだとか。なんて、現代語に訳してほしいなと思うぐらいだった。一方、面白くて新しい漢字と出会ったので、一概に批判できないのだ。

近世社会論

Posted by チャート・デイビッド on September 15th, 2008

昨日書いた通り、今日も読書専念で、歴史の本を読み終わった。近世社会論は、タイトルの通り、江戸時代の様々な側面からの検討が修められた本だ。章ごとに内容が異なるが、興味深いことは多い。
例えば、身分的周縁論という章に大坂での宗教者の統治のことが論じられた。ここで神仏習合の密接さが明らかになるので、興味深い。大坂で、お寺は限られた地域にしか設けることは許されなかったが、浄土真宗と神社は例外だった。吉田家に管轄された神職も、白川家に支配された神職も別の組合として認められたそうだし、宗教的な行為も抑制されたようだ。勝手に家で神棚を設けて祈祷などするのは禁じられたようだが、それは現在のような家庭用な神棚を指すかどうかは私には分からない。少なくとも、その神職の扱いは陰陽師や修験者の扱いと等しかったようだから、やはり近世の制度と近代の制度が違うし、伝統を掲げるなら慎重に検討するのは必要のようだ。
そして、学芸についての章もあって、江戸時代の識字は広く浸透したようだ。三都だけではなく、地方にも上級農民が蔵書を持って、数百冊も集めたようだ。あの時の本は比較的に高い価値だったはずだが、そのぐらい多く本を持った人がいたのはびっくりした。この人は特に学者ではなかったが、やはりインテリの人だった。本に興味を持つ人だったと言ったら差し支えないだろうが、興味だけでそのぐらい集めるなど、素晴らしく思う。因に誹諧だ大流行したときにあの層が漢詩に逃げた事実は、興味や好みより、自分の社会的な位置を固めるためのほんだったのだろうかと思わせる。
朝廷についての章もあるし、下層の労働者についての章もあるので、近世社会は重層だったことを感じさせる。そして、現在についに例えてしまって、私がどういう人たちに例えるだろうと思ってしまう。公家ではないことは明らかだが、本を集める人たちか、純労働の人たちか、庄屋層になった人たちか、分からない。(純労働ではないはずだが。)二百年後歴史学者が現在を鑑みると、どういう風に捉えるかというのは、興味深い問題だと思う。少なくとも、今私たちが重んじる問題や犯罪を全く違う捉え方にするはずだと私が思う。