私の生活、意見、日本語の練習

Archive for the '社会構成' Category

企業の民主主義

Posted by チャート・デイビッド on June 2nd, 2008

現代の社会を見たら、企業が、特に大手企業が、たくさんの力を握るのは否めないだろう。江戸時代の侍や平安時代の貴族のように、国民の生活を司る権利が政権に認められている。現代なら貴族の権利を批判するが、会社の権利を受け取るのは一般だ。
会社には死刑の権利はないというかもしれないが、過労死を考えたらそれでも明らかではないことが分かる。企業側が勝手に労働状況を定めるのは普通だし、株主が企業の行方を左右することも常識だ。だが、常識だからといって正しいとは限らない。会社の状況は好ましくなければ辞めたらいいと思う人もいるだろうが、会社を辞めるのはそんなに簡単な決断ではない。収入がなくなるし、再就職の保障はない場合は多いだろう。我慢しながらもう少し頑張るのは普通の決意だろう。
だから、会社の勝手な力を抑えるために民主主義を導入したらどうだろう。詳しいことはここで決めないが、取締役を雇用された人の投票で選ぶ民主主義を考えている。社員の一人に一つ票の権利を与えて、有権者なら候補にもなれる権利を与えよう。そして、首にされた人は、次の選挙にまだその権利を持つことにしよう。そうすれば、不人気な取締役が首にする方法で位置を確保できないので、重大な措置だと言える。取締役が一変変わったら企業には悪い影響があると思えるので、例えば12人の内毎年二人を替えたらいいかもしれない。そして、報酬は、社員の皆の投票で計画を賛否したほうがいい。アメリカの政財と同じように、締切までに決められない場合、先年の通り続くことにしたらいいだろう。
こうしたら会社が破綻すると思う人はいなくはないだろう。一般の社員が必ず給料を大幅にアップするので、コストが拡大してしまって、競争力を失うからだ。だが、今なら、特にイギリスやアメリカで、取締役が自分の給料を大幅にアップしているので、これは今のままのほうがいいと記す論議ではないだろう。さらに殆どの社員は馬鹿ではないと思う。会社が破綻しないように祈りながら仕事を進めるので、給料で倒産を招くはずはない。そして、取締役になる可能性があるから、会社のなかの階級によって給料が異なる制度を認める可能性は高いと私が思う。
しかし、一般社員のなかから選ばれた人が会社を司る能力を持たない可能性は高いと思う人もいるだろう。確かにこういうリスクがある。一方、人間を絶滅する力をもらう人は、即ち米大統領は、こういう風に選ばれるので、会社の指導権ならいいだろう。さらに会社で働く人は、或る程度会社の状況、条件、危機などが分かることが避けられないし、自分の繁栄と深く関わっていることだから、政治の場合より賢く選ぶのではないか。
こういう制度を導入しても、小中企業を例外にしてもかまわないだろう。例えば雇員が150人以下の会社なら、株主が司ってもいいという許可を与えられるだろう。より小規模な会社には、より弱い力があるし、一般社員には影響力がもとよりあるので、新しい措置の必要が迫らない。そして、こういう風なら営業に尽力して会社を設立する人には適切な報酬がくると思う。
これは社会の革命と呼べるのは言うまでもないが、暴力は必要はない。もう民主主義によって選ばれた政府には、こういう制度を導入することに足りる権利や力があるので、政治運動は充分だ。だから、考えたらどうだろう。

経済力と幸せ

Posted by チャート・デイビッド on May 9th, 2008

自由主義から課題を転じたいと思う。自由主義は社会の基礎だが、基礎だけは建物ではないのように、自由主義だけで社会が構えない。社会は多元的だと思うので、社会構成の理想も複合的なはずだ。とはいえ、重大な指針は人の幸せなのは否めないだろう。国民は皆幸せだからといって社会は理想的だとは限らないかもしれないが、幸せではない人は多いなら、社会はまだ理想から離れているとは言えるだろう。人の幸せを犠牲することは、慎重に考えたほうがいい。
どういう状況の中で人間が幸せになるかという課題について最近研究が活発になったが、発見された事実の大部分は思った通りだ。例えば、友達がいれば幸せになる傾向は強いとか、重病を背負ったら幸せの程度が衰えるなどのだれでも分かることも確認できた。だが、ちょっと意外なことも発見された。重病のことだが、長い間同じ重病を背負ったら、時間が経ったら病気になる前とほぼ同じ幸せに戻る場合は多いようだ。
もう一つの、重要な発見は、お金と幸せの関係についての発見だ。「お金から幸せが発生しない」と言われているが、殆どの人は信じないようだ。実は半分事実半分嘘のことだそうだ。或る基準まで持っているお金が増えたら、次第に幸せになる。その基準を超えたら、いかにお金を手に入れても幸せのレベルはあまり変わらないようだ。基準は、社会によって異なるが、日本なら一つの家庭には年収は400万円ぐらいだと言えるだろう。(実は、アメリカの数値しか見たことはないので、ちょっと推測した。)
社会構成への影響は、経済成長を一番重んじる必要はないことからくるだろう。要するに経済が縮小しても幸せのレベルが変わらない場合もあるので、経済の数値から目を離れて、直接に幸せや幸せの原因を見たほうがいい。途上国の場合、幸せの条件を見たら、経済力を伸ばすのは必要なのはすぐ分かるだろう。例の基準を下回る人は殆どだから、経済に気をつけるべきだ。一方、日本の場合基準を超える家庭は大部分だから、経済力より他の問題に集中したほうがいいだろう。経済力より生活に効くからだ。
つまり方針が経済に悪い影響を与えるからといって避けた方がいいとは限らないのである。慎重に考えるのはひつようだし、経済力を伸ばすのは悪くないのは認められるが、それはともかく経済の優先順位は一ではない。だから、この立場から社会のことが考えたいと思う。

所有権と課税

Posted by チャート・デイビッド on April 14th, 2008

自由主義の立場から考えたら、課税が難しく見える場合は多いだろう。課税は、強制的に人からお金を取ることだから、自由を犯すのではないかと思われるだろう。だが、この意見の背景には所有権がある。所有権が問われたら、どういうふうに擁立できるだろう。
所有権が守れたら、利益があるのは明らかだ。長期的に計画が立てられるようになるし、人と人の間の組み合わせもスムーズにできるようになる。さらに価値があるものを作る動機を与える。最近共産党が政権を握る国で所有権なしの社会が試されたが、失敗だった。一方、所有権を大事にする国が成長した。確かに所有権は唯一の異なる点ではないので、因果関係は確定されていない。しかし説得力がある議論だし、実験の結果を無視することは愚かなことだからとりあえず所有権を保ったほうがいいといえよう。
だが、絶対的に守ったら、所有権は生命権より重大だというようになってしまう。なぜなら貧乏な人が飢え死にしたら、犯罪としないが、生きる為に米を盗んだら犯罪とするからである。二つの権利を並べて見たら、生命権のほうが重要なのは明らかだろう。だから所有権をより重んじるのは避けるべきだ。
「仕事しないと死んでもいい」という人がいるだろう。それは、私の考え方によると残酷な意見だが、ただの意見違いではない。先ず働きたいが仕事はない場合も少なくない。特に日本で中年でリストラされた人が再就職できない場合は多いようだ。そして、選択の自由を守る為に働かない選択も可能にする義務がある。この義務を果たすには、大別すると二つの方法があると思う。
一つは盗みを許すことだ。人が死にそうになったら、必要なものを盗んでも犯罪にならない状況だ。この方法は良くないと思う。理由は二つある。一つは、盗むことは本当に必要だったかどうかを判断するのは難しいから、どの盗みでも有罪にするのが難しくなるからだ。もう一つは、必要な場合に限られても所有権の利点を大きく損なうからである。所有権の利点は、安心して安定された所有物が使えることから流れる。だから、飢え死に防止のために盗みを許したら安定さが失われるので利点も失われる。
もう一つの方法は、課税して、税金から人を養う方法だ。課税が必要になるが、課税は安定した制度だから、所有権の利点を滅ばない。所有権がある国を見たら、この点は明らかだろう。アメリカにも日本にも税制があるが、所有権の利益も見える。だから、税制と社会保険はないなら、所有権を保つのは悪徳だ。制度の詳細には問題が残るが、税制そのものは、自由違反や人権違反ではないと強く述べたいのである。

平等と公平

Posted by チャート・デイビッド on April 7th, 2008

平等と公平は社会の中の重大な理想だが、具体的にどうしたらいいかは意外に難しい問題になる。
平等といえば、どういう側面から平等すべきかが問われている。背の高さは不平等でも、あまり問題にされていないし、体重もおなじだ。平等したいことは、普段はお金で、機会、知識、幸せも挙げられている。だが、お金を平等にするのは、自由主義の基本を侵す。なぜなら、お金を強制的に平等にしたら、お金で利益が与えられなくなるからだ。自由に利益を与えるのは自由主義の基本だと前に述べた。知識や幸せについて考えれば、別な問題も発生する。同じ生活で人の幸せは様々だ。極端的な例だが、ゲーの人は、異性の人との結婚で大変幸せになるわけはないが、そうでない人の場合結婚は幸せと密接しているようだ。だから、異なる幸せの種類を平等かどうかを判断するのが必要になる。だが、これは極めて難しい。比喩だが、髪の色を平等にすると同じだ。金髪は、茶色の髪より高級だろう。どうやって比べるかさえ分からない。幸せの種類も、知識の種類も同じだといえる。
公平にするのも同じような問題がある。行動に相応しい反応を受けることは、公平というだろう。だが、「行動に相応しい」とうのは、どうだろう。本を書いたら、お金をもらうのは公平だと言ったら、本の良さと関係あるだろう。そうしたら、Harry Potterを書いたJ. K. Rowlingの数百億円のもらったお金は、公平かどうかを判断するのは難しい。書いた本はいいが、数百倍で今の本のうちに一番いいとはいえない。だが、公平ではないと言ったら、どうしたらいい?本が人気になったから著作権を剥奪するのは、不公平に見えるだろう。
平等や公平を重んじたら、自由を侵すことが多くなる。平等を唱えて、私立学校を禁止すべきだという人もいるし、共産党が率いた国で平等の目標のために自由を大きく損なった。その上、破壊することは創造することより簡単だから、平等を発達するために利益がある人に損害を与える方法は多い。
だから、私は平等と公平に重点を置きたくない。社会構造がよかったら、不公平や不平等の極まりは見えなくなると思うが、人に選択の自由を与えたからそういうことになるだろう。選択の自由はより大事だと判断するので、そういう風に理論を進めたいと思う。

自由主義〜促進と抑制

Posted by チャート・デイビッド on March 29th, 2008

前述のように、許すべき行為の範囲は広いと思う。だが、許すべきだからと言って、必ずしも平等に扱うべきとは限らない。個人のレベルでも、自治体のレベルでも、国のレベルでも同じだ。自治体と国を一緒に論じたいと思うので、その先に個人レベルの状況を検描写する。
個人レベルで、自由主義の基本によって促進の自由は守られている。利益を与えたかったら、誰に与えてもいいので、促進したい行為の上で配ってもいい。抑制の方法はもう少し限られているかもしれない。基本的に、利益を与えないことができるが、損害を与えることはできない。だから、会員権を剥奪するのはいいが、罰金を課すのを避けてほしい。利益のために条件を作ってもいいが、損害を避ける為の条件は、自治体のレベル以上に限りたいと思う。法律や民主主義は重大な要素だからだ。
さて、自治体レベルについて考えよう。促進は、個人レベルと同じくできると思う。ただ、選択の自由の記事で述べたように、促進する行為は、選べる行為に限るべきだと思う。生まれながらのことはもちろん、過去のことを促進するべきではない。だから、制度が設立した後で人ができることを促進したら良いと言いたい。定義を定めるのは難しいが、概念は明らかだと思う。
一方抑制も政府の義務だと言える。抑制と言えば、禁止に及ばない方法が使えるだろう。例えば、ポルノは良くないと判断したら、表現の自由の為に禁止できない。一方、ポルノの消費税を50%に設定してもいいのではないか。10,000%の消費税なら、禁止と等しいと言えるが、50%なら欲しい人はまだ買えるので、作りたい人がまだ出版できる。だが、出版する状況がちょっと厳しくなるので、量が減る可能性はたかいと推測できるだろう。同じようにお酒の消費税や関税を100%にしたら、飲んだ量が減るはずだ。100%以上の税金は、禁止することに近づくので気をつけるのは必要だが、税金そのものは禁止だとは言えない。
税金はいい方法だといえるだろうが、唯一の方法ではない。例えば、許可得ずに何かするのを禁止してもいい。ただ、許可をもらうには、手続きのみが必要なのは条件だ。拒否できれば、それは禁止の種類だ。ただ、許可を簡単に得られなくても禁止ではない。例えば、本人が特定された事務所に行って、申請して、ある程度の手数料を支払う手続きでもいいだろう。さらに、事務所を小笠原諸島で設けてもいい。そして、申請したら、一ヶ月後事務所に戻って指導を受けて、さらに一ヶ月後事務所に戻って許可を得るパターンでも禁止ではない。だが、気軽にする人はいなくなる。(実は、外国人の再入国許可はこの形だ。手続きのみは必要だが、ちょっと手間がかかるので、日本を出ない外国人もいるだろう。日本の政策は、本当に国の中に在日の外国人を残すことだろう。)
ここで慎重するのは必要だ。許可を得る方法を大変難しくしたら、課税を重くしたら、禁止に等しくなるだろう。それは、最高裁判所が結局決めることだが、行為がまだ現実的にできる程の手続きや税金は大丈夫だと言える。小笠原での事務局はちょっと大げさかもしれないが、一回許可得たら終生できる形になったら、いいだろう。毎年必要としたら、手続きをもう少し簡単にした方がいい。小笠原諸島へ三回行くのは手間がかかるからだ。
政治家や政府や宗教や業界の指導者の批判を抑制することもすべきではないと思うが、これはもう一つの段階になる。そして、禁止されない場合、ちょっと厳しくしても深刻な問題にならないと言える。政府に対して強い不満を持つ人は、許可を得るからだ。一方、宗教を抑制してもいいだろう。抑制しない宗教もあってもいいが、宗教を他の行為と同じように扱う方針を取ったら、抑制したほうがいい宗教があるのは可能だ。ただ、禁止するのは難しいだろう。表現の自由、利益の自由、選択の自由で殆どの宗教の信者になれると思う。禁止と等しい抑制は、この範囲でも禁止される。差別も同じだ。利益を与える場合、差別を禁止するのは、禁止だ。だが、抑制するのはいい。
だが、このような問題は、平等と公平の問題と関わるので、後でもっと詳しく論じたいと思う。

自由主義〜子供の問題

Posted by チャート・デイビッド on March 25th, 2008

子供は、自由主義の立場から考えたら、問題だ。実は、ふたつの問題になる。
比較的に簡単な問題は、幼い子供を自由にするわけにはいかないことだ。赤ちゃんを自由にしたら、死ぬ。「さぁ、コンセントを食べよう!」と思ったり、「道路の真ん中で遊ぼう」と思ったりすることは多いからだ。そして、学校に行きたくない子供は多いが、学校に通わないと、将来が暗くなるので、強制的に通わせるのは必要だ。この問題は、成人の年齢を設定することで解決できると思う。ただ、一つの成人年齢は単純過ぎるだろう。ほとんどの国では、ちょっと分かれている。例えば、就職するのは、日本で十五歳からだが、お金を借りるなどは二十歳からだ。年齢について理論できると思うが、基本的にこの方針はいいと思う。言った通り、比較的に簡単な問題だ。
もう一つの問題は、子育ての問題だ。子育ての方法を選ぶのは、親の自由の重大な点だが、子供は親と別な人間だし、上に述べた通り自分で決められない。政府は、どのぐらい親子の間に関与すべきかは問題だ。幼児虐待を防ぐのはいうまでもないが、「幼児虐待」というのは、何だろう。明らかな例はあるが、「子供に損害を与える」と定めたら、宗教的な教育を禁止することになる。なぜなら、宗教には嘘はたくさんあるが、嘘を本当として教えるのは損害になることだ。これを禁止するのは、政府は必ず正しいという強調だから、避けたいと思う。そして、幼いころからスポーツに専念すれば、芸能界に入れば、後で肉体的に、精神的に問題になると言われるが、禁止すべきのだろうか。
子供を守りたいし、できるだけ親にも自由を与えたいので、慎重に考えたほうがいい。先ず親が教育を独占するのを禁止すべきだと思う。選択の自由を保つために大人になってからも普段の教育が受けられることになることはもう決めたので、子供のころに他の意見や生活の存在が知ったら、大人になって自分で決められると思う。これは、親は、教えないほうがいいことは子供に無理矢理教えることになるが、それは仕方がないと思う。一方、親の自由を保つために国も教育を独占しないほうがいい。そして、教育の最低限を強いてもいいかもしれない。ただ、これは内容より方法を中心にしたほうがいい。文字を教えるのは義務付けにしてもいいが、国史を教えるのは、義務付けないほうがいい。なぜなら、内容まで指定したら、国の方針のために子供を利用ことになりがちだからだ。
だが、親が子供にダンスをさせたり、囲碁をさせたり、数学をさせたりする行為をどうしよう。たぶん、ここで「大人になったら、自分で別な道が選べる限り、許す」方針がいいだろう。だから、ほとんどの人が子供の時代が無駄になったと思っても、親の方針を許したほうがいい。宗教的な環境で育てるのは、よくこの範疇に入ると思う。同じように芸能界を目指す親もこの例になるだろう。最適な育て方と思えないが、自由主義は、そういうことを許す方針だ。ただ、子供のひどい障害になる生活を禁止すべきだ。子供のころ毎日数時間ピアノの練習しても、文字などは大丈夫なら大人になったら数学者に転職できるだろう。
そして、この範囲にも子供に自由を段々与えたほうがいい。例えば、十二歳から親が反対しても公立中学校に通えることなどしたほうがいいのではないか。確かに子供がどれほど親の影響から抜き出られるのは問題だ。しかし、社会的に可能性を認めたら、親の行為に抑制になるだろう。子供もそのころ積極的に参加したかったら、許すべきだ。顧みると、私の十代には無駄になった時期は少なくないが、それは仕方がない。
明らかにするために、暴力は、普通の法律によって禁止される。それは、厳しく守って欲しいのである。暴力なしに子供が育てられなかったら、もう親としての失格だ。

自由主義〜宗教と性的な行為

Posted by チャート・デイビッド on March 19th, 2008

今回ちょっと異なる話題について書きたいと思う。だが、大事な共通点がある故に書くことにした。それは、普段に宗教も性的な行為も自由主義の中で特別な扱いの対象になるということだ。確かに特別扱いは極端的なのだ。
宗教は、指定され自由にされる場合は多い。「宗教の自由」は、日本国憲法にもあるし、アメリカの憲法にもある。そして、自由主義を論じる人は、ほとんど宗教の自由を保つのは重大だと述べる。私はちょっと違う。宗教は、もう確保された自由で十分守られたと思う。表現の自由で布教が可能になるし、利益を与える自由で宗教の構造も守られる。確かに「地獄で苦しむよ」のような迫る布教は違法になるかもしれない。しかし、許すべきはない行為を許さない方針が固めたい。如何に宗教の名前を纏っても、許せない行為を許さない。普通の自由主義に確保された範囲が足りなければ、それは宗教の問題とする。もう自由をなるべく広げる方針だから、ほとんどの宗教には問題はないと思う。
そして、性的な行為。これは、普段は特に縛れる。私は他の行為と同じく扱いたいのだ。他の人に利益を与えてもいいし、自分に損害を与えてもいいし、表現も自由だから、禁止することは少ない。しないほうがいいこともするべきではない行為があるが、何回も述べたように自由主義は、するべきではない行為を許す方針だ。性的に侵すのは、まだ禁止できるのはいうまでもないだろう。それは、強制的に人に損害を与える行為だから、禁止できる範囲に明らかに入る。
つまり、宗教も、性的な行為も、普通の他の行為と全く同じように扱いたいのである。