私の生活、意見、日本語の練習

Archive for the '社会構成' Category

自由主義〜宗教と性的な行為

Posted by チャート・デイビッド on March 19th, 2008

今回ちょっと異なる話題について書きたいと思う。だが、大事な共通点がある故に書くことにした。それは、普段に宗教も性的な行為も自由主義の中で特別な扱いの対象になるということだ。確かに特別扱いは極端的なのだ。
宗教は、指定され自由にされる場合は多い。「宗教の自由」は、日本国憲法にもあるし、アメリカの憲法にもある。そして、自由主義を論じる人は、ほとんど宗教の自由を保つのは重大だと述べる。私はちょっと違う。宗教は、もう確保された自由で十分守られたと思う。表現の自由で布教が可能になるし、利益を与える自由で宗教の構造も守られる。確かに「地獄で苦しむよ」のような迫る布教は違法になるかもしれない。しかし、許すべきはない行為を許さない方針が固めたい。如何に宗教の名前を纏っても、許せない行為を許さない。普通の自由主義に確保された範囲が足りなければ、それは宗教の問題とする。もう自由をなるべく広げる方針だから、ほとんどの宗教には問題はないと思う。
そして、性的な行為。これは、普段は特に縛れる。私は他の行為と同じく扱いたいのだ。他の人に利益を与えてもいいし、自分に損害を与えてもいいし、表現も自由だから、禁止することは少ない。しないほうがいいこともするべきではない行為があるが、何回も述べたように自由主義は、するべきではない行為を許す方針だ。性的に侵すのは、まだ禁止できるのはいうまでもないだろう。それは、強制的に人に損害を与える行為だから、禁止できる範囲に明らかに入る。
つまり、宗教も、性的な行為も、普通の他の行為と全く同じように扱いたいのである。

選択の自由

Posted by チャート・デイビッド on March 16th, 2008

前もって交換ミスの注意する。洗濯の自由も自由主義の当然な結果だが、重大なのは選択の自由だ。このミスは私によくあるミスだから、予めご了解ください。
さて、選択の自由。ある意味でこれは自由主義の基本だが、他の課題と取り組まないと具体的に分からないことだ。自由主義は、選択肢といえば、多ければ多いほどいいと思う立場より、選択肢をできるだけ広げる方針を指すと思う。前に述べたことは、するべきではないことまで選択肢を広げるべきだが、制限がある。制限をどこに置くかは、前の記事の話題になった。
だが、制限の内にも社会構成を自由主義によって築いたほうがいいと思う。本当に選択できるには、禁止する法律はないことは足りない。するか死ぬかというのは、本当の選択とはいえないのではないだろうか。そう思ったら、許すべき生活の中から何を選んでも、衣食住が賄えるのは必要だとの結果がある。要するに人が仕事しなくても最低限な生活に必要な財源を与えるべきである。最近これは自由主義の一部としてあまり挙げられていないが、古代ギリシアに遡ったら、生きるために働くのは必要であれば、本当に自由にならないと強調した哲学者は多い。定めた結論だったが、実は本当にそうだ。仕事したほうがいい理由に後で戻りたいと思うが、自由を保つために仕事しなくてもいい社会構成を築くのは不可欠だと思う。
もう一つの構成の側面は、いつでも選択できるようにすることだ。ちょっと前に「破壊の梯子」との記事で述べたが、高校でサボるばかりにしても、後で卒業資格を得て大学に進んで、いい職業に入れる社会構成は必要だと思う。即ち一回失敗しても、もう一度頑張って成功できる構成はいいと述べたいのである。極端の例として、生まれながら選択できないことをなるべく縮小するべきだ。歴してきにある例として、政権を貴族生まれの人に限るのは自由主義を侵す。だが、女性禁止の制度のこの例だし、実は天皇は天皇家で生まれないといけないことも例の一つだ。
天皇の例は、問題を思わせるかもしれない。社会構成を如何に自由にしても、生まれながら無理な選択肢が残る、天皇の場合は、天皇は一人しかいない。それは「天皇」の意味に含まれているので、数を増やしたら意味はない。だから、選挙などにしても、なれない人は圧倒的に多い。現実的な理由として、総理大臣になれるは、40年間には20人以下だろう。一億人以上の日本は、なりたい人に限っても、なれないのは普通だ。そして、私は如何にも日本生まれの日本人になりたかったら、できない。もうイギリスで生まれ育てだからだね。
だから、問題点を大まかにふたつに分けられると思う。一つは、物理的に、論理的に無理なことだ。身長3メートルになりたくても、できないし、生まれたら、生まれた場所は変えられない。これは仕方がないだろう。ただ、他の選択肢になるべく影響を与えないようにしたほうがいい。だから、アメリカの大統領の条件の一つ、即ち生まれながらのアメリカ人に限られたことは、自由主義を侵す条件だ。これも、もう一度頑張れるようになる理想と繋がっている。過去に何をしても、これから何の目標を目指しても可能とするのは理想だ。
もう一つは、日本の総理大臣のようにできる人数は本当に少ない場合だ。これも仕方がないが、だれでも頑張れるようにしたほうがいい。私は、芥川賞を受ける可能性はないと言ってもいいけれども、執筆に頑張れる。オリンピック選手になる可能性はないが、訓練はできる。
これも複雑になる。なぜなら、最初に許すべきと述べたのは、自由に利益を与えることだった。特に自分の家族に利益を与えるのは許すべきだ。そうすると、生まれながら受けられない人がいるのは当然だ。自由主義の中にも矛盾があるのは、哲学を実現としようなら必ずあることだから、これも仕方がない。具体的な例を考える時に判断したほうがいいと思う。
だから、自由主義の方針は、誰にもいつでも広い選択肢を与えることだ。

自由主義と損害

Posted by チャート・デイビッド on March 13th, 2008

自由主義の最低限として利益のみの行為を許すべきと述べ、そして表現の自由を論じた。次は損害が関わる行為を許すべきかどうか考えたいと思う。この範疇には、如何に自由主義を讃えても許すわけはない行為が入っている。殺人、強盗などは損害を与える行為だから、損害を与える行為を許すことになっても、なんでも許すわけはない。
損害を与える行為を一切許さない方法はどうだろう。それは言い過ぎだと思う。なぜなら、何をしても間接的に損害を与える可能性は高い。例えば、この人に利益を与えたら、その人が比較的に貧乏になるので、損害を受けたと言う人もいる。(これは、私立教育を反対する人の拠点だ。)だから、先ず許すべき行為を決めるために、こういう比較的な損害を無視したほうがいいと思う。利益を受けないことは、損害と呼ばないことにする。
次はあの世の中の損害を考えよう。宗教によって、あの世に損になる行為は様々なのだが、よくあるパターンは、他の宗教の信者になるのは大変損になる構想だ。だから、そういう損害を防ぐために、他の宗教の布教を禁止すべきと思う宗教者は多かった。私は、あの世について知っている人はいないと思う。知っていると強調する人は多いが、同意する人は少ない。だから、自分の信じることを発表するのは表現の自由の範囲に入るが、あの世の損害に基づいて行為を禁止するのは許すべきではないと言いたい。禁ずる基準として、この世の損害のみを有効にしよう。
まだ問題点がある。自分だけに損害を与える行為はどうだろう。例えば、自発的にサービス残業をするのは、労働者に損害を与えるが、禁じるべきか。禁じるべきではないと思う人は多いだろう。では、麻薬はどう?麻薬といえば、お酒やタバコはどう?(子供は、自由主義にとっては難しい問題だから、しばらくの間見送らせていただきます。)また経済的な問題に転じたら、経営が悪い会社に投資するのを禁ずるべきか?何かをすることを置いておいたら、何かを怠ることはどう?運動しないと、健康には損害になるので、運動を強いたほうがいいだろう?
これを考えたら、他の人に損害にならない限り、自分に損害を与えるのを許すべきと思う。一切すべきではないとも思うが、自由主義の本質はすべきではないことを許すことだから、この組み合わせは当然だ。
最後に他の人や環境に損害を与える行為はどうだろう?基本的には、こういう行為を禁じてもいいと思う。損害は些細なら、許したほうが例もある可能性があるし、仕方がない場合にも許さないわけにはいかないだろうが、ここは場合によって決めたほうがいいと言えるだろう。自由主義を大切にするのは、許せたら許す態度に見える。要するに、許す理由を探してから決めるという方針だ。禁止するのは、許すわけにはいかない場合に限ること。

自由主義〜表現の自由

Posted by チャート・デイビッド on March 7th, 2008

表現の自由は、自由主義の基礎の一つと言える。といっても、これも簡単な問題ではない。言われたことによって人が精神的に傷を受ける場合も多いし、いじめは言葉だけで行われる場合も多い。表現の自由というのは、いじめを許すべきと言う意味だろう。それはありえないとはすぐに言えない。自由主義の基本は、すべきではないことを許すことだから、いじめるべきではないが、だからといって禁止すべきとはかぎらない。
では、表現の自由は、具体的にどういうことにするべきか。先ずフィクションをなんでも許すべきと思う。フィクションは、現実と無関係で縛らないほうがいいと思う。曖昧な場合、はっきり「フィクションだ」という義務を付けてもいいが、それがあったら、なんでも許すべきだろう。
さて、嘘はどうだろう。フィクションと違って、嘘は現実を偽ることだ。中傷も入っているが、食物の偽造も入っているので、こういう行為を禁止してもいいだろう。私は、禁止してもいいと思う。なぜなら、表現の意味を考えるからだ。「表現」というのは、意見や想像を表す行為だ。嘘を付いたら、自分の本当の意見を表さない。それは嘘の本質だと言えるだろう。だから、表現はいかに自由であっても、嘘を一概に許すわけはない。もちろん、一概に禁止することも過言だ。本音と建前は、どこの文化でもあるので、禁止したらすべきではないことを禁止することになる。だから、偽造、中傷などの場合を禁止して、他の嘘を許すべきだろう。
だから、いじめをまた考えたら、本当に太っていると思ったら、毎日「お前はドラえもんのように太いよ」と言ってもいいわけだろうか。これは本当に難しい問題だ。そういう批判を一切禁じるなら、政治家などを批判するのも禁じられる。だが、政治家や政府や宗教を厳しく批判することは、表現の自由の一番重要な成果だと思う。フィクションを縛っても社会への影響は強くない場合は多い。むしろ、制限があるからこそ素晴らしい作品を作成する場合も歴史によく見える。フィクションを自由にすべきだが、それは重大な点ではないと思う。一方、政府や宗教や社会構造を批判できなければ、国民の自由は本当になくなりそうだ。「政府の通りにしたら、自由だ」というのは、本当の自由ではない。だが、一切批判できなければ、従うしかないと言える。「行為で批判する」こともあるからだ。
更に政治家や宗教家の批判方法も自由すべきだとおもう。そうしないと、「過激だから」という言い訳で批判を禁じる場合も多い。同じく、法律を変えるべきと言っても犯罪にならないのはこの基本の一点だと思う。「殺人を犯罪にしないほうがいい」と言っても、それ自体を犯罪すべきではないと思う。厳しくそういう人を批判すべきだが、言わせるべきである。
だが、一般人をそういうふうに批判したら、それはいじめになる。だから、公的な役割を担う人を自由に批判させて、嘘を付かない限り、一方一般人の批判に制限を与えたほうがいいだろう。だれも一回批判しても許したほうがいいが、繰り返して批判する行為は、制限したほうがいいと思う。
要するに難しい問題になるが、政府や宗教、政治家や宗教家、官僚に対して批判権を守るべきだが、一般人の場合、批判の対象も守るべきだと思う。

自由主義の基本

Posted by チャート・デイビッド on February 28th, 2008

自由主義というのは、なんだろう。自由主義を讃えるのは重い責任だと私が思う。なぜなら、本当の自由主義は、すべきではないことを許す構想だからである。この意見に反対する人はいるのだろう。自由主義は、人を自由にすることだが、すべきではない行為は禁止すべきだから、許すわけにはいかないと思う人は多いのではないか。しかし、これは自由不義と呼べないと私が強調したいのである。
してもかまわない行為を許すのは、当然だ。如何に国民を弾圧しても、してもかまわない行為は許されているだろう。確かにしてもいい行為の範囲が狭くなる場合もあるが、緩やかな法律は自由主義と本格的に違うのではないか。自由主義というのは、一般社会と異なる生活を送りたい人を守るための構想だから、すべきではないことを許すのは重要なポイントだ。分かるために具体的な例を考えた方がいいだろう。キリスト教によると、神様を拝むのはすべきではないことだ。だから、日本でキリスト教が過半数を占めるようになったら、神道を禁止するのは、すべきではないことを禁止する方針にほかならない。ヨーロッパをみたら、キリスト教が歴史的にこの方針を取ったので、架空な例ではない。だから、キリスト教が普及しても神道の祭りを続ける権利がほしかったら、すべきではないことは許すべきだという自由主義を挙げるしかない。
だが、なんでも許すべきではない。明らかな例として、殺人を許すべきはない。だから、自由主義の立場から見たら、すべきではないことの中に許すべきことも禁止すべきこともある。区別するのは、一番重要な問題であろう。
私には、まだ完全な解決はないが、要素がある。最低限は、利益を与えることは許すべきということだ。一般社会も、与える人も、受ける人も、これは利益だと同意したら、すべきではなくても許すべきだと思う。この範疇にはすべきではないことはないと思うのは簡単だが、間違いだ。例を一つ挙げる。温泉に入るのは利益だ。(「利益」を広い意味で捉えてほしい。)だから、入浴権を日本人にしか与えなくても、みんなが「利益を与えることだ」と思う。すべきではないのは、外国人に与えないことだ。平等に入らせるべきだと私が思う。だが、これは最低限で自由主義によって禁止すべきではないことだ。
この最低限は、宗教の自由も、表現の自由も含まれていないので、自由主義はここで止まるわけにはいかない。だが、もう抵抗感を起こす構想になったので、今日はここまで。

社会構成

Posted by チャート・デイビッド on February 26th, 2008

最近社会構成について考えるようになった。前から様々な倫理的な問題について考えたが、この一、二年間でもう少しまとめた概念を創ろうとした。このブログでも断片的にアップしたので、読んでくれる人にはもう分かるところがあるはずだ。(意見という範疇に入れたので、今でも読める。)だが、益々まとめて、企画にしたいと思うので、これから時々アップする。まだ断片的になるのはいうまでもないだろうが、積み重ねて企画にする予定だ。
目標はなんだろう。実現できる確率は極めて低いと思うけれども、政治の問題について考えたら、自分の方針があったほうがいいような気がする。社会の構成のイメージはなかったら、矛盾を抱える反応を出す恐れはなくはない。そして、企画があったら、ある程度政治的な活動するかもしれない。「ある程度」というのは、法律に許される面もあるし、暇がある面もある。在日外国人として、政治と関わる権利は制限されているので、ブログ以上にならないだろう。だが、私は、私のために自分の意見や理想を明確にしたいので、ブログで書いてもいいのではないかと思う。
そして、なぜ日本語のブログで書くことにしただろう。実は英語のブログでも書いたことがあるが、もう少し日本語で書くつもりだ。どうして日本語で書くかというと、日本の状況を考えて書くつもりだからだ。イギリス人なのに、日本に住んでいるので、日本の状況は私の日常生活と深く関わっている。一方、イギリスの状況はほぼ関係ないと言える。イギリスの政治に関与する程度にも厳しい制限があるので、それはあまり違わない。更に日本とイギリスの現状を比べたら、日本の現状のほうがいいと思う。確かに日本は完璧ではないし、イギリスの社会から学べることもある。しかし、全体的に考えたら、日本の社会のほうがよく構成されたと思う。その詳しいことを折に触れてこれから書くが、理想な国体を目指したら、日本の現状から出発するのはより無理はないと言いたい。一つの例として、最近の読売ポッドキャストによると格差社会を批判する日本人の割合は83%だそうだが、日本の格差はイギリスの格差よりまだ狭い。一言でいうと、日本では社会を維持したい人はより多いようだ。
今日はこの序文までだが、概ねに私の概念を紹介する。基本のは、自由主義だ。そして、人間を本当に幸せにする社会構成を目指して、他の生物との共存を大切にしたい。これほど抽象的な構想なら、異論するのは難しいだろうが、これから具体化して、反対する人もいるだろう。コメントを書き込んでもらえたら嬉しい。