私の生活、意見、日本語の練習

Archive for the '神道' Category

書く余裕はない

Posted by チャート・デイビッド on November 12th, 2008

今日神道の講座と多くの授業が相俟って、ブログを書く余裕は殆どない。講座はまた興味深かったので、講座について書きたいのだが、授業が始まる前に最後まで書けるわけはない。だから、書き始めるが、明日アップすることになると思う。だから、今日の公開する分をここまでにする。すみません。

神道の内容

Posted by チャート・デイビッド on November 11th, 2008

先日読み終わった「祝詞作文」という本を読んだら、初めてはっきり言った「神様の存在を信じなければならない」と書いてあった文章を見つけた。神道もキリスト教と違うし、日本語も英語と違うね。英語でキリスト教を説明したら、すぐにはっきり「信じるのは必要だ」と必ず書いてある。曖昧さを好む日本語と言葉自体を嫌う神道を組み合わせたら、全く違う状況になるね。
はっきり言っても、まだ不明だが。キリスト教なら、何を信じるべきかははっきり言われた。いわゆる「creed」だ(日本語で言えば信条かな)。神道の場合、何を信じてほしいかまだ分からない。富士山が存在すること?はい、信じる。それほど狂っていないからね。(本居宣長の「神」の定義を考えたら、富士山の霊だけではなく、富士山自体は神様だ。)イザナギとイザナミが神話の通り国産みしたこと?いや、信じられない。その間の何か?まぁ、どうだろう。霊力があることなら、霊力って何?によって違うだろう。
でも、これはもう曖昧さを避けて、言葉を積もることになるので、日本語の傾向や神道の「言挙げせじ」の性格に逆らう。私は、哲学者の魂を持っているので、やはり言葉ではっきりしたいのだ。
だが、恐怖を抱いている。神道は私には魅力的だというのは今までのブログから明らかだろう。だが、信じられないことを信じるべきであれば、神道から退けるしかない。作法に従って動作するのはいいと思うし、慎みながらすることも普通だが、神社の中に神話に描かれたような神様が宿ることは信じないし、信じられない。信じる基礎は全くないからだ。
前に同じようなことを書いたような気がするが、科学が世界を完璧に分かることも信じられない。感覚さえ分からないし、物理学の基本的な理論はお互いに不合理だからだ。とは言っても、科学が世界をよく理解するので、はっきり分かることは数百年前の人が発想した世界理解論は、事実とずれたことだ。だから、神様などについての理論も同じなはずだ。説明できない現象を見て、神様を発想したことだが、それは正しい説明なはずはない。今の科学が説明できない事実を示唆する現象があった可能性が否めないし、可能性を積極的に認めるが、数百年前に毎日繰り返す自然現象の説明は事実とほぼ無関係だったので、稀にある現象の説明が当たるはずはない。
要するに、神社や祭りにはナニカが関わる可能性を認めるし、そのナニカは現代科学上説明できない可能性も認めるが、そのナニカは神話に描かれた神であることは認められないのだ。実は、神社や祭りにはナニカがあると思う。そのナニカは、心理学や社会学で説明できる側面があることは明らかだと思うが、説明できる側面しかないことはまだ不明だと思う。そして、これは日常的に訪れられる神社の場合だ。稀のことについて、何も言えない。意見を作ることに足りる情報はないからだ。
だから、はっきり信じること(富士山が存在すること、神社にはナニカがあること)とはっきり信じないこと(古典的な神が存在すること、古事記に納められた神話が本当にあったこと)の間に、神道に属する間隔があるかどうかは悩みだ。なかったら、ちょっとがっかりするが、言挙げせじの神道で、間隔を封じるための発表力はないだろう。
ないといいね。

初参拝作法

Posted by チャート・デイビッド on November 10th, 2008

毎晩、家族三人で神棚の前に揃って、お参りする。お参りしながら、当日の感謝することをはっきり言う。(三人でするのはポイントだから、一人になった時ちょっと怠ってしまった。真由喜が寝てしまう場合、ゆり子と二人ですることは少ないないけれども。)
さて、私とゆり子がちゃんと二拝二拍手一拝するが、今まで真由喜が笑ったり泣いたり逃げ出したりしかしなかった。だが、昨日の夜に真由喜が私とゆり子に合わせて二拝八拍手一拝した。拍手がちょっと多くなってしまったが、順番は正しかった。やはり、脳の発達が親をちゃんと真似するレベルに至ったね。
実は、昨日そういう証拠が沢山あった。からのプラスチックなコップを持って、飲みふりしたし、赤ちゃんのお店でゆり子のように洋服を探検した。食べる前に「いただきます」のときに手を合わせて、後の「ごちそうさまでした」の時にも合わせる。
本当に嬉しいことだ。

祝詞作文

Posted by チャート・デイビッド on November 7th, 2008

また内容を明瞭にするタイトルを持っている本を読んだ。またISBNさえ持たない神職向けの専門の本だから、アマゾンで買えない。
神社で祝詞を聞くときに役に立つと思う。なぜなら、祝詞の構成も用語も言葉遣いも説明されているからだ。それは勿論だね。作成するために、そういう知識は必要不可欠だからだ。祝詞の特別な表現の辞典もあるし万葉仮名の表もあるので、それも勉強になった。
作文の勉強する方法についてのアドバイスがあるが、それはいわゆる三多:
多く読む。
多く思う。
多く作る。
そして、一回書いたら暫くの間置いて、推敲することは勧められる。
やはり、他の作文と全く同じだ。何かを作成するために、同じような作品を沢山読んで、深く考えて、そして練習するしかない。そして、できれば原稿を置いてからまた見るのはいいし、他の人に見てもらって推敲するのもいい。私は、日本語が書けるようになるために日本語の本を読むので、すぐに日本語の小説が読みたいと思う。もう楽しめると思うし、今まで読んだ本は殆ど学問的な本だから、語彙も言葉遣いもちょっと歪まれた。ブログで日本人の知り合いが分からない言葉を使うそうだが、日常会話でよく使われるそうの言葉は初耳になってしまう。もちろん、この本はそういう歪みに貢献した。
さて、この本に戻ろう。「真」という字も、「由」という字も、「喜」という字も祝詞の決まり文句で使われているようだから、真由喜のための祝詞を作るのは面白いかも。ただ、本によるとそういう歌謡的な表現を使わないほうがいいそうだし、私には祝詞を作る機会はない。といっても、勉強になった。

巫女さん入門〜初級編

Posted by チャート・デイビッド on October 23rd, 2008

この本もタイトルから内容が分かると思う。東京にある神田明神によって編纂された本で、神田明神で行われる巫女さん入門講座の書籍化だ。私が買った理由は、今書いている作品には巫女になる主人公があるので、巫女には何が教えられるか確認したかったからだ。その目標に十分役に立ったと思う。(後書きには「アニメにある超能力を持つ巫女さんと本当の巫女さんが違うことがわかっただろう」と書いてあるが、私の作品もある意味超能力を持つ巫女が出てくる。まぁ、私が書く作品はファンタジーだから、当たり前だろう。)
だが、この本の良さは、その目標を優れると思う。神道の入門として、今まで読んだ本の家に一番だと思う。
この本で、「言挙げせじ」というのは、神道の特色の一つとして挙げられている。だが、他の読んだ神道入門は、言挙げばかりだ。書籍を考えたら当たり前だが、言挙げせじは本当に神道の特色だと思うので、そういう立場から神道を論じると、入門としてちょっと問題があるのではないかと私が思わざるを得ない。一方、この本の基づいた講座には実践は重視されたようだ。勿論基礎知識が書いてあるが、本の中心は神社の作法や祭りのやり方だ。つまり、参拝する方法、二礼二拍手一礼の作法も、祭りのことや神棚、供え物などの説明は丁寧に掲載される。
だから、この本を読んだら、現代の神道の基本が分かってくると思う。参拝などができるようになるし、人生儀礼のことも分かる。これは神道の全てではないが、基礎として古事記の神話の粗筋よりいいと私が思う。確かに入門の次の一歩は神話などだと言えるかもしれないが、次だ。(実は、古事記の神話の前に全国の神社の実践などをちょっと学んだほうがいいと思うが、なんと言っても古事記の神話を比較的に早めに修めなければならない。)
一つの面白い点だある。元の講座は、一日中の講座だから、半ばに昼食がある。だから、本の真ん中に食事の作法の章がある。これは基本ではないと思うが、確かに巫女さん講座の昼食には必要だ。だが、ここに賛成できないポイントがある。それは、食べながら会話すべからずとの戒めだ。私は、逆に食べながら会話すべきだと思う。家族や友達との仲を深めるための相応しい機会で、見逃すわけにはいかないと思う。
こういう点で相違があるので、やはり神田明神の巫女さんになれない。
えっ?もう一つの阻害がある?外国人であることだろう。確かに、本に「日本人の」と書いてある。何?その「の」の次は?
あっ、そうだ。では、神職しか残らないだろう。

國學院大学神道資料館

Posted by チャート・デイビッド on October 22nd, 2008

今日渋谷での授業が朝にあったが、午後に授業はなかったので國學院大学の神道資料館にもう一度訪れた。特に特別展が見たかったが、結局特別展のみ見えた。仕事の日だったから、数時間を費やすわけにはいかなかったし。特別展で熊野那智大社参詣曼荼羅が展示されたが、印象的だった。大きくて、鮮やかな色で壮麗な描き方だったので、参詣者もよく見えたし、那智の滝も見えた。滝の中に火があったように見えたが、それは神霊を表すための描き方だろうと思った。(那智大社のご神体は、那智の滝だからだ。)解説には「絵解きに使われたか」と書いてあったが、私の絵解きのイメージはびくにが歩き回って熊野の神徳を称えることだが、やはり違う。この曼荼羅を用意に運び回すこともできないし、そういう跡もなかった。熊野系神社で展示されただろう。
そして、案内してもらった時見えなかった常設展の部分もちらと見えた。季節の祭祀の録画があって、日本語だけではなく、英語の解説もあるようだから、また機会を作って見に行きたいと思う。全国のお祭りが収録されたようだったので、興味深そうだ。
そういえば、解説の英訳はまだ未完成なのようだが、手伝えたら手伝いたいのだが、どうやって問い合わせしたらいいかさえ分からない。メールですると思ったが、ホームページ上メールの連絡先はないようだ。電話は失礼のように気がするし、岡田先生が講座で現れたら直接に話しかけたらどうかなと思った。(本人がこのブログを読む可能性があるので、ケンブリッジの時代に資料館での小規模展示を監督したことがあるのを書いておくし、まだ展示されているようだ。今調べて、びっくりした。十年ぐらい前にデザインしたからだ。もうすぐ更新するはずだね。)結局郵便の手紙になるだろう。

神社祭祀関係規程

Posted by チャート・デイビッド on October 19th, 2008

また神社本庁が発行した神職向けの本を読んだ。今回は、祭祀規程の本だから、神社の祭りの行い方は詳しく説明された。
ちょっとびっくりしたのは、本当に細かいところまで定められていることだ。祭りの次第だけではなくて、歩き方、立ち上がり方まで規定がある。イギリスの国家協会で、祭りの次第は定められたが、身振りは慣習によって左右されたような気がする。
私が読んだのは、平成二十年改訂版だが、やはり神社本庁の発足以来二回大きく改訂されたようだ。それは現実と時代の情勢に合うためだというので、それはいい方針だと思う。中心のことを保ちながら、時代に合わせたほうがいいのは否めないだろう。そうしないと、どんどん時代遅れになって、支持を失うからだ。
だが、内容を読んだらやはり考えさせられる。統一を強いることは、一概に悪いとは言えないが、このぐらい統一するのは必要なのかという疑問だ。祭りの次第のところに「神社の故実があったら、それに従うことだできる」との附記があるので、神社の特色を規程の中で保つ可能性がある。一方、作法を定めたら、神社神道が一つの宗教や伝統に見える。言葉を挙げない神道では、この作法の統一化でしか表せないだろう。バランスは重大だから、外から見る素人として当たっているかどうかは言えない。
規程を読んだら、大変厳しい印象を受けるが、氏神様の白幡さんを考えたら、川崎市指定文化財の禰宜舞は規程に定められた祭りの枠外に行う。そういう風に工夫しても良かったら、問題はないはずだよね。