2006年04月25日
最近疲れてきた。でも、原因がわからない。過労などしていないし、徹夜していないし、遅くまで飲んだりはしたりさえしていないので、謎だ。朝に起きてしまい、また寝られない。一見見ると、ストレスの病症のように見えるが、別にストレスはない、睡眠不足のこと以外。睡眠を悩み、寝られないかもしれない。悪循環だろう。何といっても、深刻な問題ではないので、謎を解くのを頑張る。というより、よく寝ようとする。
実は、仕事は今特にストレスのない状況だ。土曜日に原稿を提出したし、英語の学生をたくさん集めたので、うまくいっている。そして、面白い出来事はあまりない。先週の週末にゆり子と一緒にのんびりしたりしたし、先々週の週末に神社で結婚式の打ち合わせをし、漫画喫茶で漫画を読んだ。英語の日記で漫画喫茶の特徴について語ったが、日本人はもう分かるはずなので、ここで書くつもりはない。だから、今日のテーマは、「哲学とは何か」にした。
日本に来るまえに、哲学者として働いていた。今、哲学をするのに時間は殆どない(全くないといってもよいだろう)が、哲学の論文を読んでいる。今読んでいる論文は、英語の「the」を巡り論争の話題だ。私が読むと、「日本語には「the」はないので、これほど重大な概念なわけはないだろう。」と思い浮かんでしまう。だが、そういう問題はアメリカやイギリスの哲学の基盤といってもよい。くだらないとは言えないが、宇宙の深い構成について何も教えないはずだ。ただ言語学の一部分だし、言語学者に任してもいいのではないか。
もう少し考えたら、考えるだけで、世界の秘密を掘り出すはずはあるか。最近の科学を見たら、世界の現実と私たちの考え方との共通点はあまりないようだ。哲学者はもう無駄な存在だろう。(私はもう哲学者ではないので、平気で考えられる。)確かに、無駄な哲学は多いと思わないわけにはいかない。しかし、完全に無駄だと思えない。なぜなら、歴史的に見れば、人間の知識が殆ど哲学の源泉から湧いてきたからである。科学はもともと哲学の一部分だったし、文学も一部分、経済学も哲学に含まれていた。心理学は、わずか50年前に哲学と区別し難かった。今でも、先端の物理学で哲学っぽい質問も多いし、心理学も同じだ。だから、哲学はまだ意味あるといえよう。
だが、具体的にどういう意味だろう。「哲学は知恵だ」という答えは一般的だが、今日の哲学を見たら、知恵とは関係はない。単なる分野である。知恵のない哲学者も多い。だから、何だろう。歴史から糸口が取れると思う。もともと、古代ギリシアで、分野の全ては哲学に含まれていた。アリストテレスが殆どの分野を進めた。だが、17世紀ごろ、科学が哲学からの独立宣言を発表した。それは、科学の質問が答えられるようになったからだったと思う。或分野の質問が答えられ、まだ答えられない分野を別にし、新しい分野として進めた。心理学も同じだ。これは、哲学で進歩はない理由だと思う。進歩すれば、哲学と呼ばなくなるからだ。
だから、哲学は、答えより質問と言ってもいいと思う。換言、哲学の役割は、質問の尋ねかたや答えかたを探す分野だといえよう。これはあまりに簡単だと思う人がいるかもしれない。質問を答えることではなく、ただ質問の選びかたや答えるための努力の選択を考えたら、誰もできることだろう。実は、違う。何より難しいことだと思う。先ず、答え方を考えよう。証拠や論理が必要というのは、当り前だろう。が、証拠とは、何だろう。夢は証拠といってもいいか?科学と言えば、長い間夢は証拠として扱われていた。自然な状況での発見はどうだろう?長い間、それは一番だと思われた。不自然な状況で半分作られた現象はどうだろう?実は、科学の進歩には一番効果がある証拠だ。が、何百年間、不自然だから、現実との関係は薄くて、頼りはないと思われた。心理学と言えば、人間の考えを発見するために、やはり人に尋ねたほうがいいのではないか。そうではない。ただ尋ねたら、答えは現実と無関係だといっていいようだ。証拠の基本的な性質を発見するのには、大変な才能、幸運、努力が必要不可欠なのようだ。
その上、論理も当り前ではない。アリストテレスが基本の論理を発見したが、20世紀には新しい論理が作られた。アリストテレスの論理は、あまり効果的ではないようだ。なぜなら、簡単過ぎ、現実に当て嵌められないからだそうだ。量子力学の分野で、最近相応しい論理についての論争が続いている。実は、量子力学には深い論理的な問題があるが、やはり現象を推測するために大変役に立つ。だから、量子力学の基盤にある問題を解決するために努めている人は多い。その人の間に物理学者も数学者も哲学者も含まれている。
そして、適当な論理も妥当な証拠もの性質が分からなければ、どうやって問題と直面するだろう。それは、哲学の基本な話題だと思う。が、これは大学の科目になり難い。どうやって能力、否、努力を判断できるか。無駄のように見える研究は、素晴らしい発見になるかもしれない。証拠も論理も分からなければ、全然推理できない。未だ結果はないという現実を見ても、一日後で結果が出るかどうか分からない。一方、哲学が教えられない。問題を見せ、見方を教えることだ。学生の練習の為に問題の挑戦させられるが、挑戦する方法が決まったら、進歩するはずはない。実は、未だ使われた方法は、残っている問題を解決する力を持っていない可能性は大変高い。前に様々な問題を解決したが、こういうふうに解けられなかったからこそ、残っている問題が残っている。
だから、哲学抜きに文明が発展しないと思うし、哲学の役割は未だ終わっていないと思うが、哲学の学部には本当に意味があるかどうか疑っている。有効的な哲学は、他の学部にも入れられる。(例えば、私の学論は、心理学に入れられる。物理学か生物学か歴史学に入れられるいわゆる哲学もある。)本当の哲学は、天才しかできない。天才に満ちている学部は、どこにもいない。
ところで、話題が変わるが、未だブログのことについて考えている。設け方を調べ、一応できると思うし、役に立つはずだ。ただ、まだ時間はない。とにかく、ブログを設けたら、日記の代わりにエッセイを書くつもりだ。正直にいうと、今日の日記は、「日記」とはいえない。