言葉の中の神道

今日国学院大学の神道講座があった。すぐに夏休みになるので、夏休みの前の最後の講座だった。テーマは、「日本語と神道」だった。日常の日本語の語源に遡ったら、神道の概念を見付けるということだった。

例えば、年(とし)の言語は何だろう。教授によると、元々稲の実りという意味だったそうだ。だから、一年に一回稲の実りが取れるため、としが時間を指すことになった。そして、数え年も同じ原書から発生したそうだ。皆が同じ時にお米をもらったので、皆同じ時にもう一つのとしをとった。

そして、息子と娘のムスは、自然にできていることをさすという。だから、ムスヒは生日という意味で、太陽から自然に発生した力を指した。

興味深い所は多かった。例えば、神様を指す「みこと」という言葉は、もともと「御言」という意味だったと言われている。だから、日本の概念にも、神様は言葉だということになる。(キリスト教にも、キリストを「御言葉」と呼ばれている。)

でも、ちょっと疑問が湧いてきた。教授によると、五世紀に日本列島に住んでいた人達が日本語を話したなら、その千年前にも日本語を話したと推測できると言われた。が、ヨーロッパなら、そう簡単に推測できない。昔の言葉と現代の言葉の間には関係があるのは確かなのだが、変化があることも否めない。そして、記述する前の文明の形は本当に分かり難い。誰かが「この伝達が昔々から正しく受け継がれた」と言っても、記述がなかったら信頼できるかどうかは不明だ。多分、あの人の祖父の子供のころから同じく続いたかもしれないが、その前に遡れない。どうやってこういうことが分かるというと、記録があったら、口伝と記述を比べることができて、口伝が昔の形から離れていくということが明らかになる。要するに、古墳時代まで遡れるかもしれないが、その以前にいくのは、考古学しかない。考古学でイデオロギーを理解するのは、極めて難しい。

だから、言葉ができた時の宗教観と現代や歴代の神道の考え方がどういうふうに違うかは分からないと思う。確かに、昔の宗教の面影が残っているはずなのだが、どういう点がその面影か発見できないといってもいいだろう。