入学基準

私は、中高生の時代、私立学校に通った。その学校が大好きで、教育も良かったと思う。(そして、男子校だが、そのことについて今回書かない。)私立学校として、学費も入学試験もある。入学試験は難しいと言われているが、学費は特に高くはない。そして、最近募金して、奨学金を補給するために今頑張っている。なぜなら、入学試験を合格すれば、家族がいかに貧乏でも、男子が入学できるべきだと信じるからだ。入学基準として、家族の財力を拒むようだ。長い間、私もそう思ったが、最近ちょっと考え直した。だから、今の考えを説明したいと思う。

先ず、私も基準として家族の財力を認め兼ねる。豊富な家族で生まれた子供には利益は多いので、わざともう一つの利益を重ねれば不公平だといえるのではなかろうか。が、入学試験も同じだ。学力がある子供にはもう利益が多いので、わざともう一つの利益を重ねれば、これも不公平だとは言えないだろうか。だが、そう考えれば、いったいどういう基準に基づいて決めたらいいだろう。

理想的に考えれば、子供が皆最高の教育を受けるのとが望ましい。しかし、現実は理想的ではないので、本当の有り様に合わせて製作を定めたほうがいい。だから、例として、子供の10%にしか教育が与えられない状況を挙げよう。基本的な様相は10%にしかよりいい教育が与えられない状況などと共通だから、取り合えずこういうふうに考えてもいい。

最初に、同一の扱いを拒む。それは、そうすれば全体的な状況が前より悪くなるからだ。公平的にすることは大事なのだが、他の大事なこともある。例えば、数千年前からずっと公平的にしたとすれば、今も人間が洞に住むだろう。皆に農業などについて考える時間が与えられなかったので、公平にしたらまだ農業が発明されていない恐れがあるといえよう。

だから、一割に教育を与えることは決まっている。質問は、どの一割に与えたらいいかということだ。豊富な家族の子供に与えないほうがいいと思う。両親が豊富だからといって、第三者が子供に利益を与えるべきとはいえない。一方、両親が自分の子供に利益を与えたら、悪くはないだろう。(ちょっと前に同一という記事でその課題と取り組んだ。)だから、教育を売れても、罪はないと思う。ただ、今別な立場から考えている。具体的に、私は他の人の子供に教育を与えようとしたら、どうやって対象の子供を選んだらいいということだ。

さて、進もう。試験に基づいて選んだらどうだろう。一般の意見は、そういうふうに選んだらいいと言うまでもないぐらいに見える。確かに、学力がある子供はよりいい進歩するはずだ。しかし、なぜ利益に利益を積み重ねても問題はないという。一つの答えがある。本当に一割しかに教育が与えられなければ、社会に一番いい利益を与える子供を選んだほうがいい。個人的な立場から考えたら、どの子共に利益と与えても、同じだ。社会的に考えたら、才能がある子供に教養を与えたら、教育を貰わない子供も利益を間接的に受ける。だから、最初の私立学校が設立された時に、入学試験に基づいて選んだら良かったといえよう。

でも、今の状況は違う。だから、具体的な状況を訂正しよう。私は超金持で、無料な私立学校を設けたとしよう。(だったらいいなと思うが。)入学させる子供をどうやって選んだらいい。やはり、剤力はまだ関係ない。両親のお金は、私に必要はない。私はビル・ゲーツのように豊富だから、学力はどうだろう。

現在の日本では、公立学校もある。学校教育も悪くはない。最高とも言えないが、才能がある人が学校に入ったら、成長して社会に利益を与える可能性はかなり高いといってもいいのではないか。だから、社会の利益からの理由には力はないといえる。だから、単純に利益を積み重ねることになると思う。才能はない人にも教育が必要だ。個人的に、利益は少なくとも才能がある人の利益と等しい。学力の上よりいい教育の対象を選ぶことは許すべきはないだろう。

そうなら、どういうふうに選んだらいいだろう。住いによって選んだら、間もなく財力によって選ぶことになってしまう。なぜなら、両親が子供の学校のために住む場所を選ぶ例はおおいので、対象の地方の物件価値が高くなって、豊富な人しか住めなくなるからである。

申し込む順番の上に選んだら、暇がある両親に傾く。それも、豊富な人に傾くだろう。無職の人には暇があるが、頑張っている貧乏な人には暇はないといってもいいので、ちょっと違和感がある。

では、集中力ややる気の上に選んだらどうだろう。あいにく、これも才能の一種だから、学力と同じだ。頑張れる人も、遺伝子や環境から影響を受けて頑張れるようになったので、利益に利益を与えるのはいやだ。
抽選で選んだらどうだろう。ある立場から、一番公平な方法だが、なんとなく違和感がある。人の素質と全く関係ないので、人間を人間として扱わないような味がある。

何も残っていないのような気がしているだろう。だが、勉強と関係はない才能の上選んだらいいかもしれない。利益に利益を積み重ねるが、二つの利益は全く別だから、大丈夫といえるだろう。だれにも才能があるので、どういうふうに選んでも、こういう結果がある。ただ、勉強と関係ある利益なら、利益が益々強くなる。関係はなかったら、問題はない。

ただ、磨ける才能を選んだら、また財力がある家族に傾く。豊富な家族は準備や訓練ができるので、貧乏な家族より磨くはずだ。最近あまり磨けない才能はなんだろう。

例がある。背の高さを挙げよう。大変貧乏なら、背が低くなる。栄養が青春時代に足りないと、体が伸長しないからだ。が、現在の日本にはそういう問題はあまりないので、大丈夫だ。そして、目の良さ。手術ができるが、子供にできないようだから、豊富さとは関係はない。(残念ながら、私の目はかなりわるいので、この基準を拒もう。)最後の例として、美しさ。また、手術は出来るが、子供には受けられないので、財力と関係はない。勿論、背が高ければ高いほど頭がいいとはいえないし、目が良ければよいほど頭がいいともいえないし、美しければ美しいほど頭がいいとも言えないので、いいだろう。

確かに、これはちょっと非常識っぽい結論だが、目的はなるべき素晴らしい学者を出すことはない。そういう目標を持ったら、勿論入学試験の上に選んだほうがいい。一方、人間を自分なりになるべくいい人間にさせる目標なら、学力がない人にチャンスを与えたほうがいいのではないか。


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