人間の意志は自由か

今日終えた本は、哲学の本で人間の意志を検討した本だ。Free Willという本で、12人の哲学者の論文を集めて、問題を様々な立場から論じる。私にとって、とても興味深い話題だ。

まず、意志を自由とするために、どういう条件が必要だかという問題がある。決意が前から決まったら、自由に見えないはずだ。別な方法に決断できない場合、自由とは言えないからだ。一方、決定は偶然だけなら、それも自由とは言えない。意志が自由であれば、私自身は決められるということだ。しかし、あれは具体的にどういうことかは不明だ。私以外なことが決定を決めたら、明らかに自由ではない。一方、思い出、希望、欲望、意見、所信が強いれば、 これも自由に見えない。私が私の欲望に操られたら、私を自由と言われられないだろう。が、それ以外、私は一体何だろう。私の意志は、私の希望を背くことではないだろう。

だから、人間のアイデンティティーはなんだろうという問題が重大になる。意志は人間そのものが決めることだから、人間は何かと分からない限り、意志の問題も解決できないはずだ。この立場から見れば、人間は体ではないのが明らかだ。体の状態のために何かすれば、それは自由に決めたことではないからだ。そして、人間は脳ではないみたいだ。脳も物体だから、体とあまり違わない。だから、魂?しかし、生物学的に見れば、脳の動きで体の動きも想像の動きも分かるようだ。

一方、倫理学的に見れば、意志は自由ではないと、人間が責任を持たないようだ。だから、責任を持つために、何がひつようかという質問が重大になる。ほとんどの人が責任と運を無関係として考えるが、そうすれば、人間には責任はないという結論になってしまう。なぜなら、性格も行為の結果も行為の選択肢も運によって与えられているようだからだ。この三つを除けば、行為が残らないようだ。

この問題が難しいのが否定できない。そして、人間についての考え方とも扱いかたとも密接だと思う。この側面が鍵を握っているなのではないかと私が思う。全面的に人間についての考え方を解いたら、意志の問題も解くと思う。一方、全面的に解かないと、意志の問題も解けない。問題は互いに深く係わっているので、別々に解決できないことは驚くべきはないだろう。

ただ、全面的な解決がまだ掌握できない。私の博士論文の本で、A Theory of Understandingという本で、基礎を敷いたと思うが、それ以来築く機会はなかった。やはり、また哲学と取り組みたいと思う。時間さえあれば、できるのだろう。


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コメント

“人間の意志は自由か” への1件のコメント

  1. ryoji saieのアバター

    とても難しい論題で、素人の私には文章の内容を理解するのさえ、頭を悩ませて困ります。

    論題とは別になりますが、たった一つだけ実感できる事実がありました。それは人間の意思決定や生活には「運」が深く関わっているという点です。

    日本では何かと言えば”努力が足りない”と個人の未熟さを指摘するのみで、努力の有り方と意思決定については議論されることはまれです。

    ”99%は努力 1%は運”と世間ではよく謳われますが、これは全くの正反対ではないかと思います。運と努力の比率を数字として表すことは不可能ですが、それくらい努力が大切だと説明しているわけです。

    私の見解では99%が運 1%が努力 になります。見た目では努力の及ぶ影響などはほとんどないに等しいです。しかし、努力の1%と運の1%は等しい価値ではなく、努力の1%のほうは人間の行動において最も重要なので欠くことのできない要素だと考えています。