世界を見たら、学びたい事は多いと思わざるを得ない。日本語はもちろん、歴史、哲学、科学なども分からないといけないぐらい学ぶのは必要なのように感じる。私が学論雑誌を四つ読む。一つは哲学で、一つは倫理学、もう一つはヨーロッパの中世歴史、そして最後に日本学の一つも読む。雑誌には関係ある本の評論もあるので、本を紹介して貰う。
読みたい本は多いが、人生は足りないのは明らかだ。一部から三冊を選んで、「読みたいリスト」に加える。だが、そのリストはどんどん長くなって、加える速度はやはり読む速度より速いので、一生に読める筈はない。この厳しい現実を考えたら、ちょっとがっかりしてしまう。どうしたらいいのだろう。新聞もNatureという科学学論雑誌にも本を紹介してもらうので、リストが益々増す。フィクションの本も読みたいし、仕事のTRPGの本も余儀なく読ませられる。読むのは楽しいが、希望が力を程遠く上回るようだ。
遠い昔に知られたことを全て学ぶのは可能だったかもしれない。二千五百年前なら、哲学者も少なかったし、科学は哲学の一部分で、歴史は短かった。中世はまだだったし。だから、そのときに勉強には限りがあったと言えるだろう。と言っても、今日そうではない。
一方、楽しいことには限りはないという状況は、喜べることなのではないか。永遠まで生き残っても、勉強できることも一緒に残るので、楽しみも永遠まであるはずだ。ただ、捨てる課題を選ぶのは、辛いよ。