最近罰について考えてきた。ちょっと前に倫理学の学論誌を読んだが、一つの掲載された学論が罰を与えてもいいという結論を促進した。なぜこれは問題になるかというと、人間は、環境や遺伝子や物理学的な影響によって操作されるので、行為の責任を本当に持つと言えるかは不明だからだ。これは哲学の意志の自由の問題の一面で、数千年論じている。結論はまだ出ていないが。
さて、私が学論を読んでいる間に、どんどん不安になった。客観的に見ると、この学論が人を苦しめるのはいいということを維持する。長くて詳しく論じた人を苦しめるべきだという結論が何回も歴史に見られる。女性を自由にするべからずとか、ユダヤ人を殺すべきだとか、黒人を奴隷にすべきだなどの否定すべき結論は多い。そう考えたら、「悪い人を苦しめるべきだ」という表現も怪しく見てくる。それは、どういう風に「黒人を苦しめるべきだ」と違うだろう。
簡単に「悪いことをした人が罰を値する」と言える。しかし、これ自体は問題だ。例を上げよう。人が転んだり、思わず窓のガラスを壊しても罰を与えないはずだ。賠償を払ってもらうかもしれないが、罰に至らないと思う。なぜなら、「思わず」だからだ。罰は、意図的に悪いことをする場合に相応しいと思われる。では、もう一つの例。人が瓶の中身を薬と思って、友達に飲ませるが、実は毒だから、友達が死んでしまう。ここも、罰が相応しくないと思われるのではないか。医者に信頼して、薬として液体を飲んで死ぬ人が自殺しないようにいい結果があると思い込んで何かしてしまった人に罰を与えたらひどく見えないだろうか。子供や知的障害者が罪を犯しても、罰を与えるわけはない。叱るかもしれないが、叩いたり刑務所に入れたりするわけはないだろう。
だが、借金に迷わせられた人が連続不眠の後強盗をしたら、罰を与えるはずだ。この場合がどうやって子供や知的障害者の場合と違うだろう。環境の圧力を耐えるべきだと言っても、必ずしもできるとは限らない。転んでしまった人のように無理矢理犯させられたとも言える。確かに今の法律にこういう言い訳は認められなかったが、法律が間違える場合は多い。黒人を奴隷にするのは、法律の通りだったし、子供を刑死にするのも、法律の強調だった。現在の法律完璧だと信じる証拠はないと言ってもよい。
もう一つの例。夫婦がお互いに愛して、持ちつ持たれつしなら生活を送る。とうとう夫が病気になって、毎日毎日痛みで耐えられない状態に陥る。治療と頑張った上、最後に妻に殺して欲しいと言う。とうとう、妻が果たす。それは、犯罪だ。殺人だ。だが、同感を持つ人は多いだろう。罰より、応援のほうが相応しいだろう。決断が間違ったと言っても、妻は悪徳とは言えない。
犯人の背景を調べたら、問題を見付ける場合は多い。絶対見付けるとは言いたくないが、貧困な家族で虐待された人とか、豊富な家族で法律を無視するように教えた人などが多いようだ。背景を無視して罰を与えるべきなのだろうか。
違う立場から考えよう。罰を与えるのは、わざと人に損害を与えることだ。それは悪いことだ。普段に認められた言い訳は、どうしても人に損害を与えるしかないことだ。例えば、強盗を防ぐために人を殴ったり捕まってもいい。それに引き換え、罰は犯罪がもう終わった時に与えた。如何に罰しても、犯罪を削除できない。仕方がないと言えないだろう。私は、人を苦しめるべきだのを信じない。 だから、罰は将来の犯罪を防ぐための措置だとの理由しか残らない。
ただ、効果は意外に弱いようだ。昔は強盗を犯した人に死刑を与えたが、強盗は今より頻繁に発生したそうだ。一つの理由は、捕まえられると思わない人には、罰の恐れは全くないからだそうだ。捕まえられる確立のほうが、罰の厳しさより影響があるようだ。確かに、罰は犯罪の利益より弱いなら捕まえられても利益を得るので止まない。最近この条件が会社が侵す犯罪に限られているようだが。
もう一つの理由は、罰が気にならない人は多いことだ。イギリスで刑務所に入るのは一つの通過儀礼として思う人がいるようだ。宗教の歴史を見たら、宗教のために死んでもいいと思う殉教者は少なくはない。殉教者の時代に、宗教は犯罪だったので、罰は如何に厳しくても犯罪を侵そうとした人だのは否めない。犯罪者の集団に入った人も法律を無視する。周りの人が軽蔑すれば、法律を軽蔑するのは当り前だと思うようになるだろう。会社の常務がそうなったケースもアメリカで最近相継いで出てきたし、日本の談合問題も同じことなのではないだろうか。そうなら、罰には効果はないようだ。だから、罰より効果がある方法はないだろうか。
犯罪の利益を取るのは基本だろう。談合事件などで、賄賂はもちろん、給料も取ったほうがいいだろう。強盗なら、お金を被害者に返すのは当り前なのではないか。少なくとも「捕まえられたら利益はない」と思わせる必要がある。そして、それに「捕まえられる確立は高い」とも思わせることは必要不可欠。重ねたら、会社の犯罪が珍しくなるだろう。だが、人間には情熱があるので、必ずしも合理的に行為の結果を考えるわけはない。実は必ず死刑を受ける場合でも人が犯罪を侵すケースは少なくない。こういう犯罪をどういう風に防げるだろう。
社会の中で大事な役割を持つのを感じる人は、犯罪をあまり侵さないようだ。そして他の人と同感感じる人も侵さないようだ。でも、罰は、この二つの条件と正反対な見方を表す。「あなたは、社会には何も上げられないので刑務所に入れる」と「あなたの気持ちを考えずに苦しめる」という印象を与えなかろうか。良い方法がまだ詳しく分からないが、罰はよくないことがわかると思う。