憎むな

人を憎むべきではないと思う。当り前だと思う人がいるかもしれないが、本当にそうすれば批判されると思う。考えてみよう。

先ず、世界中の文化で、憎む言い訳を作る異見が多いようだ。人類差別はその一つだ。「黒人なら、憎むべきだ」と言う白人は最近まで多かった。今日イギリスやアメリカそういうふうに発言すれば、お終いだ。キャリアの終わりだ。人類の上で憎むのは禁止されているが、憎んでもいい。ただ、別な理由に基づかないといけない。

もう一つの例として、国籍を言い訳として使う場合もある。イギリスでも、第二次世界大戦直後日本人を日本人だからこそ憎むべきだと思った人はかなり多かった。これも最近許されなくなったようだ。

今憎まれるのは、イスラム教のテロ団体だ。そういう人は敵だから、憎むべきだという人は多いようだ。そして、そういう人を憎まないといったら、批判される。被害者のことを考えていないのかと聞かれたり、憎まないのはテロを応援する行為と全く同じだと言われたりする。これは、もう一つの憎む言い訳の例だと思う。

その言い訳は、倫理だ。倫理は、自分の行動を指導するためにあると思う。他人を憎むためではないと強調したいのだ。これは、前の「反罰」との記事と深く関わっている。犯罪者を憎まないと、罰を与えたくなくなるのだ。同じく、普通の人を憎まないと犯罪を防げたくなるのだ。だが、犯罪者にの被害もなるべく少なくしたい立場だから、罰を避けたほうがいいと自然と思うようになる。

憎まないのは難しいと思う。人間にとって、加害者を憎むのは当然だと思う。憎んでしまう人も人だから、憎んでしまう人でも憎むべきではない。ただ、憎みに同意しないほうがいいし、憎まないように促せば促す程いいだろう。精神的な傷を与えないように気を付けないといけないが、憎みから開放できればいいと思う。例えば、人がゆり子を殺したら、加害者を憎まないのは、私にとって、本当に難しいと思う。そして、周りの人が「憎むべきではないよ」と相継いで言ったら、うんざりするはずだ。憎むのは悪いと言っても、やはり殺すほうが悪いので、痛みとの同感が表して欲しい。ただ、憎みを応援しないほうがいい。

憎むべきではないと思っても、つい憎む場合があるだろう。だが、あるまじき感情と思ったら、抑えようとするはずだ。だから、より早く憎みから開放できるだろう。憎みは、憎まれる人にも、憎む人にも被害だと思う。


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