あさきゆめみし5

源氏物語を読むと短歌の交換に魅せられる。そういう風に愛情や友情を伝えるなど、素敵な限りなのではないか。確かに平安時代の短歌がちゃんと読めないが、もっと酷いのは、詠めないことだ。あのころの人達も大変だったと想像できるだろう。人が突然表れると、短歌を即座詠んで渡すしかない。結び方にも花にもきを付けないといけない。手の品質、歌の組合せ、古典の歌に因む表現の使い方などは、すべて評判の基になる。歌ができない近江の君や末摘花のような人は、悲しむばかりなのではないだろうか。紫上のように優れる人が喜ぶが、不平等ともいえよう。

社会の段階の基準として一つの才能が占領したら、良くないと言いたい。人はそれぞれだから、憧れる才能のそれぞれになることは社会が許したほうがいいと述べたいのだ。現代はそうだと思う。美貌はもちろん、スポーツの才能、お金、学歴さえも憧れられている。ただ、最近短歌を詠む力は別に尊敬されていないかもしれない。今に生まれ変わったら、紫上は高級な人に見えるだろうか。


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