自由主義の基本

自由主義というのは、なんだろう。自由主義を讃えるのは重い責任だと私が思う。なぜなら、本当の自由主義は、すべきではないことを許す構想だからである。この意見に反対する人はいるのだろう。自由主義は、人を自由にすることだが、すべきではない行為は禁止すべきだから、許すわけにはいかないと思う人は多いのではないか。しかし、これは自由不義と呼べないと私が強調したいのである。

してもかまわない行為を許すのは、当然だ。如何に国民を弾圧しても、してもかまわない行為は許されているだろう。確かにしてもいい行為の範囲が狭くなる場合もあるが、緩やかな法律は自由主義と本格的に違うのではないか。自由主義というのは、一般社会と異なる生活を送りたい人を守るための構想だから、すべきではないことを許すのは重要なポイントだ。分かるために具体的な例を考えた方がいいだろう。キリスト教によると、神様を拝むのはすべきではないことだ。だから、日本でキリスト教が過半数を占めるようになったら、神道を禁止するのは、すべきではないことを禁止する方針にほかならない。ヨーロッパをみたら、キリスト教が歴史的にこの方針を取ったので、架空な例ではない。だから、キリスト教が普及しても神道の祭りを続ける権利がほしかったら、すべきではないことは許すべきだという自由主義を挙げるしかない。

だが、なんでも許すべきではない。明らかな例として、殺人を許すべきはない。だから、自由主義の立場から見たら、すべきではないことの中に許すべきことも禁止すべきこともある。区別するのは、一番重要な問題であろう。

私には、まだ完全な解決はないが、要素がある。最低限は、利益を与えることは許すべきということだ。一般社会も、与える人も、受ける人も、これは利益だと同意したら、すべきではなくても許すべきだと思う。この範疇にはすべきではないことはないと思うのは簡単だが、間違いだ。例を一つ挙げる。温泉に入るのは利益だ。(「利益」を広い意味で捉えてほしい。)だから、入浴権を日本人にしか与えなくても、みんなが「利益を与えることだ」と思う。すべきではないのは、外国人に与えないことだ。平等に入らせるべきだと私が思う。だが、これは最低限で自由主義によって禁止すべきではないことだ。

この最低限は、宗教の自由も、表現の自由も含まれていないので、自由主義はここで止まるわけにはいかない。だが、もう抵抗感を起こす構想になったので、今日はここまで。