自由主義〜表現の自由

表現の自由は、自由主義の基礎の一つと言える。といっても、これも簡単な問題ではない。言われたことによって人が精神的に傷を受ける場合も多いし、いじめは言葉だけで行われる場合も多い。表現の自由というのは、いじめを許すべきと言う意味だろう。それはありえないとはすぐに言えない。自由主義の基本は、すべきではないことを許すことだから、いじめるべきではないが、だからといって禁止すべきとはかぎらない。

では、表現の自由は、具体的にどういうことにするべきか。先ずフィクションをなんでも許すべきと思う。フィクションは、現実と無関係で縛らないほうがいいと思う。曖昧な場合、はっきり「フィクションだ」という義務を付けてもいいが、それがあったら、なんでも許すべきだろう。

さて、嘘はどうだろう。フィクションと違って、嘘は現実を偽ることだ。中傷も入っているが、食物の偽造も入っているので、こういう行為を禁止してもいいだろう。私は、禁止してもいいと思う。なぜなら、表現の意味を考えるからだ。「表現」というのは、意見や想像を表す行為だ。嘘を付いたら、自分の本当の意見を表さない。それは嘘の本質だと言えるだろう。だから、表現はいかに自由であっても、嘘を一概に許すわけはない。もちろん、一概に禁止することも過言だ。本音と建前は、どこの文化でもあるので、禁止したらすべきではないことを禁止することになる。だから、偽造、中傷などの場合を禁止して、他の嘘を許すべきだろう。

だから、いじめをまた考えたら、本当に太っていると思ったら、毎日「お前はドラえもんのように太いよ」と言ってもいいわけだろうか。これは本当に難しい問題だ。そういう批判を一切禁じるなら、政治家などを批判するのも禁じられる。だが、政治家や政府や宗教を厳しく批判することは、表現の自由の一番重要な成果だと思う。フィクションを縛っても社会への影響は強くない場合は多い。むしろ、制限があるからこそ素晴らしい作品を作成する場合も歴史によく見える。フィクションを自由にすべきだが、それは重大な点ではないと思う。一方、政府や宗教や社会構造を批判できなければ、国民の自由は本当になくなりそうだ。「政府の通りにしたら、自由だ」というのは、本当の自由ではない。だが、一切批判できなければ、従うしかないと言える。「行為で批判する」こともあるからだ。

更に政治家や宗教家の批判方法も自由すべきだとおもう。そうしないと、「過激だから」という言い訳で批判を禁じる場合も多い。同じく、法律を変えるべきと言っても犯罪にならないのはこの基本の一点だと思う。「殺人を犯罪にしないほうがいい」と言っても、それ自体を犯罪すべきではないと思う。厳しくそういう人を批判すべきだが、言わせるべきである。

だが、一般人をそういうふうに批判したら、それはいじめになる。だから、公的な役割を担う人を自由に批判させて、嘘を付かない限り、一方一般人の批判に制限を与えたほうがいいだろう。だれも一回批判しても許したほうがいいが、繰り返して批判する行為は、制限したほうがいいと思う。

要するに難しい問題になるが、政府や宗教、政治家や宗教家、官僚に対して批判権を守るべきだが、一般人の場合、批判の対象も守るべきだと思う。


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