自由主義の最低限として利益のみの行為を許すべきと述べ、そして表現の自由を論じた。次は損害が関わる行為を許すべきかどうか考えたいと思う。この範疇には、如何に自由主義を讃えても許すわけはない行為が入っている。殺人、強盗などは損害を与える行為だから、損害を与える行為を許すことになっても、なんでも許すわけはない。
損害を与える行為を一切許さない方法はどうだろう。それは言い過ぎだと思う。なぜなら、何をしても間接的に損害を与える可能性は高い。例えば、この人に利益を与えたら、その人が比較的に貧乏になるので、損害を受けたと言う人もいる。(これは、私立教育を反対する人の拠点だ。)だから、先ず許すべき行為を決めるために、こういう比較的な損害を無視したほうがいいと思う。利益を受けないことは、損害と呼ばないことにする。
次はあの世の中の損害を考えよう。宗教によって、あの世に損になる行為は様々なのだが、よくあるパターンは、他の宗教の信者になるのは大変損になる構想だ。だから、そういう損害を防ぐために、他の宗教の布教を禁止すべきと思う宗教者は多かった。私は、あの世について知っている人はいないと思う。知っていると強調する人は多いが、同意する人は少ない。だから、自分の信じることを発表するのは表現の自由の範囲に入るが、あの世の損害に基づいて行為を禁止するのは許すべきではないと言いたい。禁ずる基準として、この世の損害のみを有効にしよう。
まだ問題点がある。自分だけに損害を与える行為はどうだろう。例えば、自発的にサービス残業をするのは、労働者に損害を与えるが、禁じるべきか。禁じるべきではないと思う人は多いだろう。では、麻薬はどう?麻薬といえば、お酒やタバコはどう?(子供は、自由主義にとっては難しい問題だから、しばらくの間見送らせていただきます。)また経済的な問題に転じたら、経営が悪い会社に投資するのを禁ずるべきか?何かをすることを置いておいたら、何かを怠ることはどう?運動しないと、健康には損害になるので、運動を強いたほうがいいだろう?
これを考えたら、他の人に損害にならない限り、自分に損害を与えるのを許すべきと思う。一切すべきではないとも思うが、自由主義の本質はすべきではないことを許すことだから、この組み合わせは当然だ。
最後に他の人や環境に損害を与える行為はどうだろう?基本的には、こういう行為を禁じてもいいと思う。損害は些細なら、許したほうが例もある可能性があるし、仕方がない場合にも許さないわけにはいかないだろうが、ここは場合によって決めたほうがいいと言えるだろう。自由主義を大切にするのは、許せたら許す態度に見える。要するに、許す理由を探してから決めるという方針だ。禁止するのは、許すわけにはいかない場合に限ること。