平等と公平

平等と公平は社会の中の重大な理想だが、具体的にどうしたらいいかは意外に難しい問題になる。

平等といえば、どういう側面から平等すべきかが問われている。背の高さは不平等でも、あまり問題にされていないし、体重もおなじだ。平等したいことは、普段はお金で、機会、知識、幸せも挙げられている。だが、お金を平等にするのは、自由主義の基本を侵す。なぜなら、お金を強制的に平等にしたら、お金で利益が与えられなくなるからだ。自由に利益を与えるのは自由主義の基本だと前に述べた。知識や幸せについて考えれば、別な問題も発生する。同じ生活で人の幸せは様々だ。極端的な例だが、ゲーの人は、異性の人との結婚で大変幸せになるわけはないが、そうでない人の場合結婚は幸せと密接しているようだ。だから、異なる幸せの種類を平等かどうかを判断するのが必要になる。だが、これは極めて難しい。比喩だが、髪の色を平等にすると同じだ。金髪は、茶色の髪より高級だろう。どうやって比べるかさえ分からない。幸せの種類も、知識の種類も同じだといえる。

公平にするのも同じような問題がある。行動に相応しい反応を受けることは、公平というだろう。だが、「行動に相応しい」とうのは、どうだろう。本を書いたら、お金をもらうのは公平だと言ったら、本の良さと関係あるだろう。そうしたら、Harry Potterを書いたJ. K. Rowlingの数百億円のもらったお金は、公平かどうかを判断するのは難しい。書いた本はいいが、数百倍で今の本のうちに一番いいとはいえない。だが、公平ではないと言ったら、どうしたらいい?本が人気になったから著作権を剥奪するのは、不公平に見えるだろう。

平等や公平を重んじたら、自由を侵すことが多くなる。平等を唱えて、私立学校を禁止すべきだという人もいるし、共産党が率いた国で平等の目標のために自由を大きく損なった。その上、破壊することは創造することより簡単だから、平等を発達するために利益がある人に損害を与える方法は多い。

だから、私は平等と公平に重点を置きたくない。社会構造がよかったら、不公平や不平等の極まりは見えなくなると思うが、人に選択の自由を与えたからそういうことになるだろう。選択の自由はより大事だと判断するので、そういう風に理論を進めたいと思う。


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