神道を知る講座〜第4回

今日は國學院大学での講座だったので、今日それについて書きたいと思う。旅行の詳細はまだだが、今講座の内容を書かないと忘れてしまう恐れがあるので、そういうことにした。

さて、今日は伊勢神道の後期についての講座だった。教授は前回と同じく中西先生だったので、また内容は多かった。もう忘れたところは多い筈だ。前回が中世を渡ったので、今回は近世に入った。戦国時代の間に神宮の式年遷宮は行われていなかったのはご存知の通りだが、年中行事一般も途絶えたそうだ。それはちょっとびっくりしたが、人事不足が問題になったようだ。神職はいないなら、行事を執り行うのは困難だね。神宮の回復期は、江戸時代の前期だったそうだ。要するに1600年から1750年の間に神宮の行事などが元来の形に戻ったという。

その内伊勢神道を唱えた人もいた。先ずは出口延佳という人物だった。十七世紀初頭に生まれ、外宮でいわゆる豊宮崎文庫を設けた人だそうだ。その文庫は、外宮の図書館として役割をして、共同勉強施設としても活躍したそうだ。本当に真面目な人だったそうだが、1670年代に相次いで不幸に遭ったという。先ず1670年に火事が発生して、文庫は焼失した。そして翌年に内宮との論争のために閉門の処罰を受けたそうだ。大変落ち込んだそうだが、少なくとも弟子を残して、神宮の歴史には学者として大事な役割を担うと言える。

つぎは、1675年生まれの久志本常彰という人物だった。また学者だったが、伊勢神道には国学的な性質をもたらしたそうだ。あのころ、神宮の禰宜になったら、宮川を渡るのは殆ど許されていないそうだが、久志本が権禰宜のままで長い間続いて、自由を使って京都で様々なことを学んだという。書物をたくさん著したが、実務も優れ、今も貴重な記録になる外宮の行事についての作品を残したそうだ。神道五部書より記紀や久事本紀を重んじたそうだから、国学の味が強いといえるだろう。

最後に内宮に属された菊谷末寿という人物だった。また学者として、神道と国学を勉強して、本居宣長とも勉強したそうだが、洋学にも励んだという。それはともかく、内宮の神職として度会神道の外宮の位を上げようとする活動に反対だったそうだ。天照大神と豊受大神の関係を現代の常識の通りに説けたが、江戸幕府の山田奉行に処罰されたそうだ。なぜなら、神宮の神秘の事を書くのは禁じられていたからだそうだ。ただ、名古屋に住む神職がその前に伊勢神道の神秘を説く本をだしたし、本居宣長が同じテーマについて書物を著したが、処罰にならなかった。理由は、山田奉行の権限が伊勢の国に限られたことだっただろうという。名古屋は尾張の国にあるし、本居宣長は紀伊の国にいたからだ。

でも、最後の人の過程から分かることは、現代の神宮についての常識は、二百年以上遡ったらもう非常識になることだ。中世や近世前半には伊勢神道は強力的だったので、外宮の祭神は天御中主神だということは常識だったと言えるだろう。そんなに古くないので、神道の基礎とは言えないだろう。

では、次回から吉田神道になると思うので、楽しみにする。


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