先日の読売新聞のポッドキャストに日本語についての記事があった。世論調査の結果を紹介したが、その結果は「日本語が分からない日本人は多い」と言われた。詳しく様々の表現の意味を聞いたが、正しく答えた人は少なかったようだ。
例えば、「〜に詰まる」という表現の意味は「結論が決まる」ということだそうだが、「挫折になって結論が出ない」と思う人もいたという。確かに私も後者の一人だったし、生徒の一人もそうだった。だが、結果をちゃんと聞いたら、ちょっと疑問が浮上した。
つまり、間違えたのは、7割だったし、正解したのは、15パーセントに止まったと言った。その上、60歳以上の人の間に正解した人は多かったし、十代の人の間に極めて少なかったそうだ。これを聞いたら読売新聞の解釈と同意できなくなった。
言語は、コミュニケーションのための道具にすぎない。(単純に音の美しさを楽しんだら、もう言語としての役割ではない。)ある表現は、人の7割が同じく解釈すれば、その解釈はその表現の意味だ。それは、表現の意味の定義だ。あるとき別な意味を持っていたとしても、変わらない。時間が下ると、言語が進化する。実は、その現実は結果から明らかだ。五十年前に「〜に詰まる」というのは、「結論が出る」という意味を持ったようだが、今は、逆になったようだ。意味が正反対になる例は少なくない。「貴様」は、元々尊敬を表す表現だったが、もう逆だ。
だから、間違えたのは、若者ではなく、高齢者だった。表現の意味が変わったことを気づかなかったようだ。
そういっても、言語の変化が問題にならないというのは過言だ。コミュニケーションが難しくなったら、それは問題だ。異なる意味を持った表現が同じくなったら、それも問題になる場合は少なくないだろう。なぜなら、表現できない概念が生じるからだ。だが、特に年を取ったら、自分が学校で習った言語は永遠に標準だと思い込む傾向はつよいようだ。もう少し考えてほしいと思う。