神道を知る講座IV〜第7回

昨日は國學院大学での神道講座だった。夏休みが終わって、昨日から再会した。今年度の神道思想のテーマで、今回と次回は垂加神道をテーマとする。垂加(すいか)神道というのは、山崎闇斎という人に発生された神道の宗派である。(なぜか、パソコンで垂加も闇斎も用意に出てこない。ちょっと学問的な言葉だろう。)闇斎は京都で1618年にいうまれ、1682年に死亡した。少年の時代延暦寺や妙心寺で仏教を勉強したが、天才として認められ、30歳に京都に戻って還俗した。あのころから朱子学をよく勉強したそうだが、神道も勉強した。妻は、下鴨神社の社家の娘だったというし、時間が経ったら様々な神道者と接したという。特に伊勢神道も吉田神道の伝授を受けたようだ。それは大変珍しかったと教授が言った。基本的には、一つの流と属したら、他の流に認めてもらえないようだ。実は、伊勢と吉田神道だけではなく、土御門家の阿部神道、賀茂社の神道なども受けたそうだ。才能は必要だが、当時の寺社奉行は闇斎の仲間だったことも無関係ではないだろう。

さて、殆どの神道流を汲んで、儒学も加えて、いわゆる垂加神道を発生した。塾も開いて、闇斎の弟子も多かったし、影響がある役に就いたことは多かったようだから、垂加神道の影響も強かった。講義で一つの例として出雲大社のことを挙げてもらった。闇斎は江戸にいた間に出雲大社から寺社奉行への依頼が来たそうだ。その用件は、遷座だったが、当時の神仏習合の形の神社ではなく、現在にある神道のみの形にしたかったようだ。ただ、それに大変な費用が必要となるので、幕府に依頼するしかなかった。闇斎の考え方で、仏教を神道から払拭すべきだったようだから、この依頼を擁した可能性は高いという。経緯はなんであっても、結果は出雲大社の変貌だった。

もう一つの重大な絆を挙げたい。伊勢神道には神道五部書という重大な教書があったが、中世や戦国の混乱で大事な「倭姫命世紀」という一部がなくなったそうだ。だが、闇斎が上加茂神社で写本を見つけたので、吉田神道だけではなく伊勢神道とのコネができたという。(残った逸文や引用から本物だったことが確認できたというし、今も度会家によって中世に著された本として認められている。)

垂加神道の内容について少しだけ語ってもらったが、呼称が発祥した中心的なところだった。それは、祈祷するときに神様からの加護を貰おうとするが、その条件や本は自分の心の中の正直だということだった。闇斎によると、心も祠だという。要するに、神聖な魂が心に潜むからこそ祈祷したら神様が応じるということだ。正直はなかったら、神聖さが欠けるので、祈祷の応えは期待できないそうだ。つまり儀式だけではなく、日常的な行動などにも重視を置いた。

次回は、もう少し垂加神道の内容が明らかになると思うので、楽しみにする。