公平

私がよく考えるトピックの一つは、公平だ。自分の生き方を考えたら重大な点だし、政治を考えても重大だ。(勿論、唯一の重要点ではない。正直、慈悲、愛情、清明なども無視できないことだが、同時に全てを考えようとしたら、混乱に陥るしかない。)だが、公平は何だかという質問は、意外に答えにくい。

例えば、ある職業に申請した二人がいるとしよう。一人は、家柄はいいし、累代の祖先が同じ仕事をしたので、この仕事に就くのは人生の目標だ。だが、別に実力はない。一方、もう一人は、家柄は貧弱で些細な犯罪を犯した祖先も多いし、家族とこの業界の間に縁はない。だが、才能を持っている。では、誰を雇ったらいいだろう。

現代の答えは、後者だ。近世の答えは、前者だろう。今の主張は、近世の方法は不公平だという批判は当たり前だろう。だが、それはなぜか?才能も、家柄も、利益になることだから、それにいい仕事を加えたら、合計でよりいいことになる。公平というのは、家柄も才能もない人を雇うことではないか。それを馬鹿な考え方にしても、才能を家柄重視する理由はなんだろう。確かに、家柄を重視したら才能のある貧困から出自した人が出世できないが、才能を重視したら立派な家の伝統を担わないと行けない才能はない人が出世できない。客観的に見たら、それは同じだろう。

私の気持ちは、現代の意見に傾く。私は現代人だし、家柄は特別ではないし、才能は、まぁ、ともかく。だが、家柄はないから、現代の視点が私の利益になる。だから、昂揚するのは、不公平ではないか。

確かに現代の考え方は全く不合理だとは言えないだろう。才能がある人が役割を努めたら、結果がより良くなるはずだ。その利益は、本人に限らずに周りの人にも及ぶのは普段だと言える。少なくとも、同じ会社で働く人にも利益になるはずなのではないか。だから、広く見たら才能の人を雇った方がいいと言える。

だが、その利益は、家柄のいい人に及ばない可能性は高いので、こういうやり方は、他の人のために或る人に不利益を与えることだ。それは、不公平の典型的な出来事だと言える。他の人の利益のために、なぜこの家柄のいい人が苦しむべきのかとも伺えるだろう。苦しませることは避けられない場合は少なくないが、公平である限り許される。しかし、公平の定義を問ったら、公平だから苦しませてもいいとは言えない。その答え方は、答えを前提にしてしまう。

勿論、家柄の例に限られていない。努力したら報われるべきだと言われているが、このブログを書くことに私が努力したが、報いはあまりない。(練習で日本語が上達したと信じるが、それも思い込みだろう。)それは不公平だと言えるか?私には、報われる権利が持たれるか?そうではないなら、仕事で努力したからと言って、収入を貰うべきだとは限らないだろう。

公平を契約に絞っても、いい結果にならないと思う。契約には悪質な条件が入ったら、契約の通りしても不公平の場合は少なくないからだ。だが、公平のことがもう分からない限り、「悪質な条件」が特定できない。

だから、考えれば考えるほど、解決が見えなくなる。公平を放棄して、慈悲などに倫理を基づいたほうがいいかなと思うほどだ。


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