神道を知る講座IV〜第9回

この部分を書く当時に今日のことなのだが、アップするときまでにもう昨日のことになるが、國學院大学でのオープンカレッジの神道講座の講義があった。最後の二回は、国学についての講演だが、大学の名前から分かるように國學院大学と深い関わりがある学問だ。そして、阪本先生によると、恐ろしい学問だそうだ。なぜなら、太平洋戦争の種がこの学問に潜めるからだそうだ。

阪本先生は大変面白い先生で、だじゃれ好きで、意見は興味深くて考えさせるが、やはり私外国人にとってまだ分かりにくいところがある。「享和三年、明日も三年」や「今も東寺」などのだじゃれが分かっても、繫がりが分からないところもあった。だから、この粗筋はちょっと大雑把になると思うので、予めご了承ください。

国学は、江戸時代に発祥した学問だそうだ。元々は、三戸学の一部で文学の研究から出発したという。万葉集や古事記の写本を比べて、写りミスを訂正したり、言葉の当時の意味を明らかにしたりする努力は多かったようだ。例えば、古事記の神様の「ムスヒ」という言葉は、「結び」の意味ではなく、「産霊」という意味だったことが明らかになったそうだ。(この例はいつも使われているが、やはり分かりやすくて、意味の差は大きいので、印象的だからだろう。)国学の四大人という人は荷田春満(かだあずままろ)、賀茂真淵(かものまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)、と平田篤胤(ひらたあつたね)を含むが、この四人が国学の基礎を敷いたと言える。特に本居宣長が三十数年の研究を修めて「古事記伝」という書物を著したという。

国学者の目的は、大陸から輸入された仏教や儒教が加えた前の純粋の日本文化や思想を発掘することだったそうだ。そういう文化があるはずだと思い込んで、年や努力を積み重ねて研究したそうだ。そういうふうにひたすら研究して、独特な文化を見つけたのはいうまでもないだろう。文学から始まって、結局幅広い意味を持つ理論になったようだ。

だが、その発展を促す内に、通信教育のような形だったそうだ。要するに、国学の学者が対面することは稀だったというし、手紙を交わすことは普段のコミュニケーションをなしたそうだ。だから、九州の南の方に住んでいる阪本先生の家にも国学と関わる本、活字の本も写本も、が残るそうだ。そういうシステムで、国学の思想が全国に広まったという。

そういえば、宣長の性格についてもちょっと意見を漏らしてもらった。穏やかなイメージを持っているそうだが、研究したら実は論争好きな人だったそうだ。だから、阪本先生が宣長のことを研究すればするほど、人間として嫌いになりつつあるそうだが、同時に「やはり宣長の人間らしさも見えるな」と思うと言った。

では、なぜ国学を恐ろしい学問と言えるかというと、日本のアジアを侵略する方針の基盤になったからだそうだ。宣長の直毘霊という書物のなかで、神国日本の概念が掲げられるそうだ。それは、日本は世界の中心点である思い込み、いわゆる日本中華論、の出発点となって、日本の文化を強制的に世界中に輸出しようとするようになったそうだ。

そして、神道の形を見たら、明治維新まで古代からの神道の形が生き続けたそうだ。神仏習合はまだ活溌だったし、吉田神道も垂加神道も積極的に活躍した。陰陽道も修験道も神道の範囲から明らかに外れていなかったそうだ。だが、明治維新で国学者の影響で国学者が古典文学から発想した神道以外の神道は破滅されたそうだ。千年の歴史は、十年以内塗りつぶされたということだ。

確かにそういう短い間に国の宗教環境を抜本的に改革することは、恐ろしいほかならない。


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