今日ゆり子が初宮参りのことについて話したが、神社にとってだれもいってもいいのではないかと言ってから、それは神社は緩いからと漏らした。私が「寛容的でしょう」と言ったが、緩いか寛容的か、意味はほぼ同じだろう。言い方によって、雰囲気がポジティブになるか、ちょっと批判的になるはというのは重要な異なる点だと思う。
同じような例は多いだろう。勇壮か乱暴か。頑固か一気にやり遂げるか。同じ現象や行為は、立場によって言葉を選んだら、誉めるか戒めるかが決められる。そして、最初に発言する人の言葉によって、後で言う人の言い方が縛られる場合は少なくない。最初から「自由を活かす」と言われた行為を「恣意」と呼ぶのが難しいだろう。だからこそ組織には広報部があるだろう。実にしていることはともかく、どうやって描写するによって民衆の意見が操られる。
言霊信仰もで至らないが、言葉は本当に強いと思う。だから、メディアなどで見る表現などをちゃんと考えた方がいいが、より重大なのは、自分の考える言葉を慎重に選ぶことだろう。自分の言葉を信じるのは当たり前だから、自分で「あれはだめだ」と思ったら、だめだと判断すると等しい。一方「あれは難しいだろう」と思ったら、やってみる可能性が残るのではないか。「あの人が私を軽蔑した」と思ったら、相手を憎むことになるが、「あの人が私に迷惑を掛けられた」と思ったら、自分の行為を調べる。だから、人生のなかに問題に遭ったら、まず問題の捉え方について考えたらいいだろう。別な立場から見たら問題が即座溶ける場合もあるが、解決する方法が見えるようになる場合の方が多いだろう。少なくとも、ずっと一つの立場から考えたら、いい方法を見逃す恐れがあるのは否めないだろう。