神道を知る講座IV〜第10回

今日、今年度の最後の神道講座に行ってきた。天気はいいので、溝の口までの散歩も気持ちよかったし、講演の内容も興味深かった。今日は、先々週と同じように、阪本先生だったが、阪本先生は面白い余談が好きだということは前に述べた通りだ。残念ながら、阪本先生には私と同じ癖があるようだ。それは、余談に入ったら、声をちょっと下げて、ちょっと早口にすることだ。私は、英語の授業でそういうことをしてしまうので、私の方が酷いことがよくわかるが、とにかくまた分からなかったところは多少あった。それは、粗筋で飛ばさせてもらう。

さて、内容はまた国学だったが、今回は本居宣長(もとおりのりなが)と平田篤胤(ひらたあつたね)を中心としたが、国学の流れは主なテーマだったといえるだろう。最初から、国学には重大な要素は考証ということだった。昔からの文献を比較して、考古学も参考にして(江戸時代の考古学は未成熟だったが)、古の事実を把握しようとする学問だったという。だからこそ、宣長が先生の説にこだわらないように指摘したそうだ。要するに、自分の先生の説はおかしいと思ったら、証拠を上げて反論してもいい、というより、反論すべきだということだ。宣長が自分の先生に対してそうしたし、宣長の弟子もそうしたという。この態度は考証に不可欠ということは、いうまでもないだろう。宣長が残した研究ノートは貴重な資料だそうだ。

この観念を考えたら、国学は神道の学問だけではないことがわかるという。文学史も、一般の歴史も、考古学も国学の範囲や範疇に入るそうだ。だが、神道との特別な深い関わりがあるのは否めないそうだ。その原点として、宣長の神説を挙げた。「カミ」という言葉の語源は、宣長によると不可知だそうだが、カミという存在について説をしたという。それは何回も述べた「優れたものはなんでもカミになる」説だ。だが、この説を考えたら、考証とほど遠い関係があることが分かる。証拠は何だろうと考えたら、証拠はないはずだということになる。だから、これはもう一つの要素に、つまり信仰になると解いてくれた。

ここで、ちょっと宣長の神観念と神道の神観念と阪本先生の神観念について述べた。それは、人によって神が異なることになる。要するにどの神を信じるのは、自由だそうだ。阪本先生の神棚に祀られた神様を別々に考えないと言ったが、ただ「神」として拝めるという。強いては特定するなら、天照大神だと言ったような気がするが、これはちょっと分かりにくくなった所だった。とはいえ、宣長なら、タカミムスヒという神だったそうだ。ここで不明のままだった点は、神から選べる選択肢の幅だった。極端的な例だが、キリストを選んだら、まだ神道になれるかが分からない。

では、この信仰の流れを特に汲んだのは、平田篤胤だったそうだ。幽界に興味が特にあったそうだ、つまり死んだ人の国に興味があって、見えない世界に興味があった。篤胤が大国主神を幽界の主として立てたそうだが、それは日本書紀の一つのところの一つの或る説によったそうだから、考証の立場から評判したらよくないと言える。だから、篤胤が考証を廃れて、信仰に専念したという評価が一般的になった。だが、阪本先生によると、その傾向の中でまだ考証のやり方を活かしたそうだ。あの世を勉強するためにも、経験があると主張した人の話を聞いたとか、文献を沢山比較したなどで、完全に国学の主流(と言えるだろう)の考証から脱出しなかったそうだ。

最後に講座担当の岡田先生がちょっと挨拶をしに来たが、来年の講座は岡田先生が一人で十回に亘って神道の論争について教える予定だそうだから、本当に楽しみにする。(岡田先生は面白いし、私にとって比較的に分かりやすい先生だから、安心できるね。)


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ:

コメント

“神道を知る講座IV〜第10回” への2件のフィードバック

  1. sherryのアバター
    sherry

    個人的には阪本先生の授業を好む
    昔授業を受けたことがあって、「古事記」を「乞食記」と読み
    いきなり自分の渋谷駅観察経験をいい始めた^^。。。
    本当に面白い先生です

  2. チャート・デイビッドのアバター
    チャート・デイビッド

    私も面白いと思いますが、日本語不足で余談が分からない場合もありますね。前年に思います。