親の精神力

先日北川景子さんがブログで愛猫の病気について書いて、最後の方に人間の子供を持つ親の精神力や責任に触れた。北川さんにはその責任を背負えないと書いてあるが、私にはそのような思いがよく分かる。私も同じだった。同じ年齢のもう15年前のときだけではなく、真由喜が生まれてくれる直前まで不安だった。今も或る程度不安だが、経験から自信が発生する。

だが、必要な強靭な精神力を考えたら、二つの点が目立つ。これは、私の今までの経験による意見だから、普遍的にならない可能性は少なくないが、普遍なことは、個人個人の経験で構えるので、普遍的な論理を作ることに役に立つだろう。

では、第一は愛情だ。それは言うまでもないだろう。愛情はないと、子供の面倒に忍耐できないはずだ。プロの保育士は仕事としてできるが、親は無報酬でするので、別な動機は必要だ。保育士と言っても、子供に対する或る意味の愛情を持たないと無理だろうので、親はどうだ。愛情は、親の義務を可能にする感情だ。

もう一つは、辛抱だ。これはもう少し具体的なポイントだと思うが、まだ抽象的に一般的だ。子供を急がせたら、嫌がる場合は多い。だから、子供のペースに合わせて進めたら、より円滑になるし、子供も親もストレスにならない。だが、そうするために辛抱は必要だ。

確かに子供の気分が待てない場合もある。例えば、帰省するときに指定席を予約した新幹線に間に合わないと大変なことになるので、子供がまだ遊びたくても出発するしかない。しかし、実は待てる場合は多い。食事の時は普通にそうだ。子供が三十分間ぐらい遊んだり食べたりしても、問題にならない。一時間でもできる場合さえ多い。焦らずに食べさせたら、子供が楽しく食べるし、満足するまで食べるので、食事に嫌がらずに気持ちよく遊ぶ。寝ることも同じだ。遊ぶことも、子供に遊びたい方法をとらないと意味はないが、子供の興味と大人の興味は別だ。例えば、真由喜にはハイハイして私の足を通ることが大変楽しいようだが、私は別にいいと思う。ただ、喜ぶ真由喜を見るのは大変楽しいので、やらせるのは辛くない。やり放題を許すためには、或る程度の辛抱が必要となるけれども。

つまり、子供は親の便宜のために存在するものではない。むしろ、親は子供の便宜のために努めるべきだ。自分の不便を素直に受け止めるために、辛抱も愛情も必要だと私が思う。


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