言語と考え

先日生徒さんが「授業で英語で話すが、後で思い出したら日本語で思い出す。大丈夫のでしょうか。」と尋ねた。私にも同じ経験がある。日本語で何かを聞いて、後で英語で思い出す、それとも逆に英語で聞いて後で日本語で思い出す。私が何語で言ったか覚えられない場合もある。バイリンガルの人なら、このような経験は少なくないだろう。

興味深い点は、思い出の形を明らかにすることだ。要するに、思い出は、言語の形ではないと言える。思い出も言語だったら、思い出したら必ず同じ言語で出てくるはずだ。だが、私の場合、同じ思い出でも時々英語で、時々日本語で思い出す。思い出の形は何かが分からないが、博士論文の考察で示唆があると思う。ここで説明するのは難しくて時間がかかるので、詳細を述べないが、模型のような形で覚えると思う。そして、また考えたくなったら、言語に移して、脳の表舞台に出して考えるのではないか。実は考察は単純に言語で行われるかどうかも疑わしいと思うが、少なくとも言語の役割は重大だと言えるのは間違いない。

しかしそうなら、言語の影響は或る程度限られている。言葉がなくても概念が持てるからだ。言えないのは当たり前だが、他の言葉を使って辛うじて伝えられる場合もあると思う。そして、言葉を当てて、後のコミュニケーションを楽にすることもできるはずだ。だから、考え方は言語に縛られたのではなく、影響を受けるということだ。言いたいことに近い言葉があったら、ついその言葉を使うが、言いたいことがちょっと変わる場合もある。一方、言いたいことは言葉から遠かったら、無理矢理言葉を受け入れることはないだろう。

言葉は、人間の道具だとまだ言えるのではないか。


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