立場と共感

社会には様々な問題があるが、取り組むと自分の立場から取り組むしかない。別な立場から取り組むために別な人になる必要があるからだ。だが、自分の利益しか考えるわけにはいかないと殆どの人が思うようだ。立場を広げるために、共感を使うのはよく使われた方法だし、いい方法だと私も思う。別な人の感情を想像して、別な人の状況に自分を仮に置いて、自分の欲望を推測するなどの過程で考えなかった点が浮き彫りになる場合は少なくない。

だが、共感には限界があるし、偏りもある。それは、自分に似ている人の状況は想像しやすいことから発生する現象だ。例えば、税制について論じたら、お金持ちの人が自分のお金を剥奪されることを直ぐに推測できるし、他の豊富の人の問題に共感できるが、一方貧困の人が貧困の人の問題を直ぐに想像して、富者には問題があることさえ想像できない場合もある。だから、富者は税金を抑えてほしいが、貧困の人は富者に課する税金を増やしてほしい。そして、レイプの問題について考えたら、女性が直ぐにレイプされる可能性を推測するが、男性はレイプすることではなく、無罪なのに女性にレイプで訴えられることを想像してしまう。だから、女性は犯人を直ぐに刑務所に行かせるような法律が欲しいが、男性は容疑者の人権を守って、ちゃんと有罪か無罪か判断する制度が欲しい。

だから、決断する権利を持つ人が一つのグループから選ばれたら、問題になりがちだ。これは、政府には少数の人が代表される必要の理由だ。実は、少数だけではなく、女性が代表される必要もここにある。これはまだ世界中問題だ。

確かに、自分と大きく違う人の立場を想像するのは無理ではない。そして、そうしようとする人もいる。特に社会問題と取り組む時幅広い人の反応を推測する人は少なくないと言えるだろう。私も幅広く考えるつもりだ。しかし、如何に想像しようとしても、難しいことだ。或る立場をすっかり忘れたり、想像するが間違えたりすることは少なくない。だから、実にそのような立場にいる人と相談する必要がある。

相談するというのは、そのような人が欲しいままにすると等しくない。客観的に考えたら、これは当たり前だろう。他のグループの立場も考えるので、結論は一つのグループの希望の通りになる場合は極めて少ないはずだ。或るグループの意見に正反対する場合もある。社会の中に同時に守れない希望があるからだ。だが、意見を無視するのは許すべきではない。考えてから決めるべきだ。

もう一つの例が挙げたい。入国法は、国民だけではなく、入国したい外国人とも深く関わっている。だから、この方針を施行するために、外国人とも相談して、法律を決めるべきだと言える。そうする国はこの世にないと思う。