公平の社会

公平を目指す社会論は少なくない。西洋には大部分を占めると言えるが、東洋はちょっと違うような気がする。と言っても東洋でも公平を昂揚する人は少なくない。

公平を一概に否定するつもりはないが、社会規模で広げたら問題が包含されると思うようになった。

基本的な問題は、不平等なのに公平だと言える状況は何だろうということだ。才能に合わせて利益を配るのであれば、不公平だという人は多い。なぜなら、才能は授かったことだからだ。自分の意志で立てたことではない。だから、運が悪くて才能を授からなかった人には利益はなかったら、不公平だ。むしろ、運を公平にするために才能のない人に利益を与えた方がいいのではないかとも論じられる。努力に合わせたほうがいいとよく言われるが、努力できる能力も、授かったことだ。授かった能力が人間の行動の全てを率いるので、意志を純粋に抽出するのは無理なのではないだろうか。

では、個人に公平な利益が定められるとしよう。まだ問題がある。公平に利益を貰った人が、好きな人に贈り物をすればどうなるか。好まれたことは、利益と繋がらないだろう。公平を唱える人がよく子供が親の利益で利益を受けるのは不公平だというので、広く公平ではないと思われたと言える。その上、問題は愛された人には限られていない。優秀な経営者がある会社で働く平凡な社員には、会社の成功に合わせて失業にならないし、収入も上がる可能性がある。だが、経営者が優秀だからといって、偶然にあの会社に就職した人には利益がるのは公平だと言えるのか。

このような問題は不可解ではないといっても、一つの明らかな解決はないというのは、明らかだ。だから、社会の範囲の中に異なる解決を選ぶ人がいるはずだ。だが、別な解決の下に住めばより利益を受ける人もいるはずだ。だから、住む場所によって利益が異なる結果は避けられない。だが、それは不公平だ。

つまり、社会を公平にするために強い統一化と画一化が必要にならないだろうか。扱いはどこでも同じではなかったら、不公平になるからだ。そして、個人レベルにも画一化が強まる恐れもないとは言えない。このような結果はよくないと言いたい。自由を侵すし、生活を縮小して人の可能性も否定してしまうからだ。この結果は避けられないと思う。人が異なるので画一な制度は、一人一人に適切な生活環境が与えられない。その上、周りの人を助けたい、それとも手伝いたい、それとも素晴らしい経験を与えたい人もいる。画一と公平を保つために、これを禁ずるしかない。

だから、全面的に見たら、公平を社会規模で目指さないほうがいいと判断する。苦しむ人を助けるのはまだ義務だが、それは慈悲のためだ。公平のためではない。