片付け

昨日が片付けの一日になった。一番重要なのは、データ整理だった。ビデオカメラで真由喜のビデオを沢山撮ったが、まだカメラのままだった。もちろん、カメラがなくなるか壊れるかと、ビデオを失うので、保存したかった。そして、日付別に保存したかった。どうしてかというと、数年後ビデオを見たら、「これはなんだっただろう」と思うことがあるからだ。私の幼いころの動画があるが、そういう場合は少なくない。「これは何歳だろう」「さぁ、三歳ぐらいかな」という会話は多い。一方、日付は付いていれば、まず年齢は問題にならないし、その上ゆり子の育児日記と私のブログと合わせたら、どの出来事かも分かるはずだ。

とにかく、それはもうできたので、ちょっと安心した。

もう一つの片付けは、本だった。本棚の上に積み重なった本があったので、それを倉庫に移した。本は増えるものだから、スペースがどんどんなくなるようだ。不思議だ。本が子供を設けるのだろう。とにかく、整理できたので本棚はもう或る程度すっきりになった。

雲雀と梟

先週のNatureという科学論文雑誌によると、人間には雲雀と梟がいるそうだ。雲雀は、朝早く起きて、よる早く寝る生活は自然だが、梟は逆に遅く寝て、遅く起きる傾向があるという。研究によると、これはだいたい遺伝子に決められているそうだ。人生の家に変化がある、例えば青春期には梟っぽくなるとか老人になったら雲雀っぽくなるなど、が、同い年の人と比べたら個人的な雲雀か梟かが変わらないという。

そうであれば、私はやはり雲雀だ。今日日曜日なのにまた6時ぐらいに起きてしまった。ゆり子は梟かもしれない。真由喜は、まだ分からない。

自分のスケッジュールに背けば、疲れて来て、健康状態が崩れるようだ。だから、私が雲雀出れば、朝に用事を済ましたほうがいいだろう。文句言わずにこの早い休みの日でも楽しんだほうがいいね。

どうかな

昨日真由喜と一緒に絵本を読んだ。ちょっと久しぶりだったので、楽しかった。二冊目の最後には、車が出て来て、「ブッブッブ」という。それを読んだら、真由喜が本箱に手を出して「ぶぶぶ」と言った。そして、私が「じょどうしゃブブブン」という本を出したら、笑顔で「あった!」と言ってくれた。一緒に読んだら、真由喜が一生懸命ページを見たりめくったりした。

だから、その本を求めたのではないかと思う。確かにDVDを求める場合があるが、本の名前を覚えて、言いだすのは始めてだろう。DVDの場合、一般的にDVDを求めて、そして表紙を見ながら見たい一本を選ぶのは普通だし。確かにこの年齢になったら、無理はない。しかし、発言はまだ曖昧だったし、親バカに覚悟したほうがいいので、疑問が残る。

いや、娘を信じる。わが子は天才だよねぇぇ。

法律と義務

歴史の本を読んだら、過去の法律の悪質が分かる場合は少なくない。その状況について読んだら、違法行為をする人を尊敬することは多い。例えば、ナチスドイツでユダヤ人を難民になるために手伝った人は、法律に違反したが、批判するわけはない。ラトビアの日本大使館にいる官僚が日本通過ビザを乱れにユダヤ人に出したが、法律に違反したはずなのに、批判する人はいないだろう。そして、内乱の前のアメリカでの奴隷を解放させた人も法律に違反したが、悪い人だったとは言えない。

しかし、その考え方を現在に当て嵌めたら、問題がすぐに生じる。法律に違反してもいいだろうか。だれがそう決めるのだろう。儒教で違反しては行けないという学者は多いが、それはユダヤ人を救っては行けないということになってしまうので、認められない。法律だからといって従うべきだとは限らないことは否めない。

確かに罰を避けるために法律に従ったほうがいい。さらに法律の大半は悪くないだろう。特に別に違反する理由はなかったら、従う方が好ましいといえるのではないか。しかし、義務の源泉はここに見つけられない。暴力団の命令も、罰を避けるために従ったほうがいいが、暴力団の命令に従う義務は一切ないのだろう。ナチスドイツの政府は暴力団と等しくなったからこそ従う義務はなかったといえるかもしれない。だが、奴隷制があったときにも、アメリカの政府は暴力団と等しくはなかった。或る程度民主主義で、反奴隷制のひとも運動していた。だから、政府には権利があるからと言って、法律の全てに従うべきだとも限らない。むしろ、違反する義務がある場合もあるようだ。

だから難しい問題だと思う。