文化の本質

先日に言った通り、今新しい日本の歴史のシリーズを読み始めた。実は、小学館日本の歴史というシリーズだが、第一巻をいま読んでいる。まだ途中だが、やっと私が欲しかったシリーズを見つけたようだ。探し始めたときには未だ出版されていなかったが、今見つけてよかった。

さて、今日書きたいところは、縄文の前半の章に文化についての部分があるが、その内容についてだ。話題は「縄文は日本文化の「基礎」か」。松本先生の提言は、文化の基盤は、概念や知識の連鎖にあるということで、縄文時代の文化の連鎖は現代の日本の連鎖と大きく違って、「基礎」とはいえないだあろうということだ。その上、現代の外国の文化のほうが近いとも言う。共通の情報は多いし、訪ねたり訪ねられたりすることも多いので、連鎖が似ているところも多いからだ。それは確かだ。否みたくない。

ただ、文化の表層が真似できるが、その連鎖は真似できないとも言う。外国で生まれ育った人が日本人とカップルになって一緒に暮らしても、「連鎖の構造は、いつまでたっても容易に溶け合うことがない」という(109頁)。この点についてちょっと注意したいと思う。

確かに、外国で生まれ育った人には日本人と異なる連鎖がある。例えば、私の場合「クリスマス」と連鎖する概念や知識がゆり子のそれと大きく異なる。しかし、日本人同士でも同じ現象があるのではないだろうか。例えば、社家で生まれ育った人の「初詣」と連鎖する概念は、東京のサラリーマンの家で生まれ育った人のそれと大きく異なるはずだ。お互いに生まれ育った環境が遠ざかる次第、共通点が少なくなるのも確かだから、日本に来たばかりの外国人と日本を出たことはない日本人の間には差は大きいとも言えるだろう。

だが、一緒に暮らしたら共通の連鎖を作る。一緒に経験することが多くなる次第、共通連鎖も多くなる。そして、外国人が数年間日本に住んだら、日本的な連鎖も自然に浮かび上がる。例えば、私にはもうドラえもんやサザエさんの連鎖があるが、アニメを見たことはあまりない。日本の空気を吸ったら、そういう共通文化も吸わないわけはない。(日本語ができることは必要だと言えるが、或る程度できなくても分かってくると思う。)

だから、文化は生まれ育った国に限られていないと思う。概念や知識の連鎖も学べることだと述べたい。文化の中で暮らさず学ぶのは本当に難しいし、無理に近いといえるかもしれないし、文化の中で暮らしても時間がかかるとも言えるが、時間が経ったら、特に積極的に文化を吸収しようとしたら、できることだ。


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