今年度の國學院大學のオープンカレッジ神道講座が今日始まった。今年度は、岡田先生が十回に亘って一人で神道の歴史にある論争について紹介する予定だ。今日は古代出雲についてだった。
出雲には特別な地位があるのは明らかだ。岡田先生が三つの特徴を挙げた。
一つは、出雲大社の規模だ。今もかなり大きな本殿だが、平安時代には日本一の高さだった。48メートルだったという。それは当時の文献に書いてあるが、平成12年に発掘検査で巨大柱の跡は見つけられたそうだ。その柱は、直径2メートルの柱を三本束ねて巨大な柱を作ったことだった。鎌倉初期なものだそうだが、48メートルまで昇ったとしても不思議ではないし、文献をそのまま受け止めてもいいだろう。そして、日本書紀によって、659年に斉明天皇が出雲国造に立派な神殿の建築を命じたそうだ。戦後までそれは出雲大社だったというのは定説だったが、戦後出雲の国の熊野大社なのではないかというせつが有力になったそうだ。だが、岡田先生の考えは出雲大社だったのではないかという。少なくとも、朝廷が天皇の宮殿より大きな建物の建設に賛成したとしたら、積極的に命じた可能性もある。
二つは、藤原京で発掘した木簡だ。これは、杵築からのスズキの魚の謙譲を登録する木簡だ。この木簡は、694〜701の間のものに見られるそうだし、古事記の出雲神話で出てくる出来事と一致する。そして、杵築というのは、明治時代までの出雲大社の名前だ。杵築大社と言われたそうだ。名前の意味は、「立派な建物がある」だと言える。ようするに、七世紀末までに出雲大社の社殿がいたと言える。
三つは、殿内祭祀のことだ。神社の原則は、本殿に入らないことだ。祭祀は外で行われている。だが、出雲大社での祭祀は、明治維新まで本殿の中で行われたそうだ。他の類似する祭祀は少ないが、天皇の即位の大嘗祭はその一つだ。だから、朝廷の祭祀に深い関わりがあるだろう。この点でもう一つ興味を引く点は、出雲で祭祀を奉仕する人は、大国主神の子孫に名乗らないことだ。殆どの場合、古代で神を祀るのはその神の子孫だという氏だったが、出雲で天照大神を先祖とする氏族だった。
そして、出雲の国造には独特な就任儀式があった。まず、朝廷にお参りして、様々な品々をいただいた。そして、出雲に戻って、一年間の斎戒した。また朝廷に来て、品々を謙譲して、神賀詞を奏上した。また出雲に戻って、また一年斎戒して、また朝廷に来てもう一度神賀詞を奏上した。この特別な形には意味があったはずだ。延喜式に記録されているが、実現された記録は716年から833年まである(延喜式は900年ごろのものだ)。最初の三回は、天皇の即位に関わっていたようだが、それ以降その関係だ断絶したそうだ。
最初の神賀詞奏上の記録は、古事記の編纂と日本書紀の編纂の間だ。そして、忌部氏の一人が、壬申の乱で活躍してから、日本書紀の全身の編纂に関わらせて、そして出雲守に赴任した。
だから、八世紀初頭に編纂された日本神話は、当時の政治状態を反映するのではないかと岡田先生が言った。重大な神社は伊勢、大神神社、出雲だったようだが、平安時代が始まると伊勢、賀茂、八幡になったそうだ。そして、神話の構成から推測したら、大和と出雲の関係は、出雲の克服ではなく、交渉で妥協になったのではないかということも言った。
確かに興味深い状態だ。出雲は近畿から遠い地方だから、なぜそれほど神話で活躍するかというと、謎だ。だが、こういう風に分析したら、活躍の形がより明らかになって、謎を解く道を開くのだろう。
では、今年度の講座も楽しみにしている。