環境問題の対策に反対する人の方法はいくつかあるが、一つは環境対策を独裁者の政権に例えることだ。その方法は、イデオロギーのために自由を潰そうとしているということだ。だが、そうではない。
今のところ証拠を考えれば、地球温暖化の結果で数百万人が死亡する、数億人が苦しむことが予想できる。確率はもう90%を超えると言えるほどだ。(確実な確率を計算するのは極めて難しいので、これも比喩だが、信じるべき証拠があると言いたい。)環境問題の対策に反対するなら、その人を犠牲しようとすると等しい。
対策によって、それでも反対すべき場合もある。過激派が地球の人口を五十年間に半額以上減少すべきがと言ったこともあるような気がする。人間は地球の病だという人もいる。そういう対策を実現すれば、死者が数億人に上るので、環境問題より酷い。解決方法ではない。本格的な革命もおなじなのではないかと私が思う。世界中の規模の革命だった、死者が少なくとも数百万人に上る可能性は高いし、社会の変革で苦しむ人も多くなるようだ。
だが、二酸化炭素の排出量を減らすための方針はそういうことではない。確かに人の自由を縛る。簡単に海外旅行に行けなくなる可能性は高いし、日本の真夏にも冷房を28度以上に設定することは義務になる。義務と言うより、それ以下に設定できない冷房しか売らないかもしれない。それは確かに不愉快なところが多い。失業者になる人も少ない。しかし、数百万人の死亡に至るわけはない。
だから、そういう対策に反対する人は、自分の為に数百万人を犠牲者にしてもいいと言っている。自分のイデオロギーのために犠牲する。
独裁者の方は、環境問題に関心がある人ではない。