日本はどうかよく分からないが、英語圏で作家についてよく言われることがある。それは、執筆せざるを得ないから執筆するということだ。要するに作家になれる人は、執筆を辞めることはできないという意味だ。作品からお金を全く貰わなくても、執筆するという。
それを聞いたら、私にはいつもちょっと違和感がある。私は作家だ。十冊以上出版してもらったら、作家だということは否めない。品質はともかく、最低限の資格を持つのは明らかだ。だが、「執筆せざるを得ない」というのは、ちょっと違わないのだろうか。確かに話や設定を想像するのは自然で、止めようとしても止まらない。しかし、執筆するのは、それ以上のことだ。
執筆するのには、頑張る必要がある。自己監理することも必要だ。数万語の作品を作成することには、かなりの時間がかかるのは想像し難くないだろう。最後までやり遂げないと、作品にならない。この努力は、私でも辞めることはできる。数年間を使って一冊の小説を出す作家も、停止したことがあるはずだ。計画的に停止した場合もあるが、やる気がなくなったり、発展が分からなくなったりして余儀なく止めさせられた場合もあるのではないか。
私には執筆する意欲が根強く潜める証拠としてこのブログもある。だが、小説の規模の作品の作成には、意欲以上な何かが必要になるような気がする。自分を責めて、執筆させる必要がある。「今日こそ少なくとも1500語を書け」とか。それでも、本当の作家だと言えるのだろう。否もうとする人は、本の証拠と直面する必要があろう。だから、作家でも必ずしも自発的に執筆するとは限らない。