神道を知る講座V〜第4回

今日國學院大學のオープンカレッジの神道を知る講座に行って来た。今日のテーマは、「古代<神社>祭祀の構造」ということだった。神社の発祥と古代の神道の構造のテーマを両方論じた講義だった。

まず、発祥のことで、神社がいつ始まったのかと言う質問から始まる。縄文時代からずっと日本に祭祀があったのは言うまでもないが、神社と呼べる祭祀は、4世紀後半から現れるそうだ。その要件として、岡田先生によると四つがあるそうだ。祭祀氏族や団体、神を祭るための空間の確定、少なくとも仮説の建築的な施設、そして年ごとの祭祀サイクルだ。4世紀後半から整った証拠があるそうだ。

そして、文献を見たら、律令国家以前の神社成立についての記録もある。5世紀後半の雄略朝で伊勢の外宮の鎮座と祭祀の開始の記録があるし、6世紀に様々なことがある。

6世紀初頭からに夜刀(やと)神伝承がある。これは常陸の国の風土記に記録されている。風土記は、八世紀前半に編纂されたそうだから、200年前の伝承を記録したことだ。常陸の国は現在の茨城県で、あるところで開墾する人が蛇の形の神とあって、杭を立てて、「これ以上は神の区域、これ以下は人間の区域。祭るので、祟らないでください」と言った話だ。古代神道を研究する人の間に大変有名な話だそうだが、私も数回読んだことがあるので、その通りのようだ。奈良時代まで、開拓者の子孫が祭祀を続けて来たそうだが、それは朝廷から国司が来たにも関わらずことだった。

岡田先生によると、これは古代祭祀の重要の要素の一つを表すそうだ。つまり、祭祀権は氏族に握られて、皇族さえ取り上げられなかったということだ。伊勢の神宮の祭祀は、皇族ではないとダメだが、例えば春日大社の場合は、藤原の末裔ではないと、宮司になれないということだ。これを聞くと神社の世界は閉鎖的に聞こえるかもしれないが、こういう要素は強いそうだ。天皇さえ超越することだ。

ちなみに常陸の国風土記にはもう一つな神社の伝承が書いてあるが、この神社は、中臣という氏族(藤原家は中臣氏の一流だった)からの人が関わって、官社になって、式内社として存続している。夜刀の神社が他の氏族に属され、官社にならなかったので、延喜式に登場しない。今も存続するそうだが、本当に小さい神社で、地元の人もあまり存在を知らないそうだ。といっても、一番古い伝承が残る神社の一ヶ所である。

九世紀初頭に忌部氏という祭祀関係の氏族が中臣氏の影響の強さについて訴えるために古語拾遺という書物を作成した。この最後の部分に、中臣氏と関わる神社は、如何に小さくても、朝廷の支援を受けるようになったが、中臣氏と無関係の神社は、如何に大きくても、無視されたということだ。ちょっと過言だが、当時の状況をちょっと明らかにするのではないか。

さて、6世紀からの伝承は少なくないので、6世紀は一つの画期的な時期だったそうだ。もう一つの画期的な時期は、持統天皇の御代だったそうだ。持統天皇は女帝で、天武天皇の皇后だったが、天武天皇が崩御になったら、天皇の位に昇った天皇だ。7世紀の晩期のことだが、神宮の式年遷宮、大嘗祭の一代に一回の制度、そして神祇官の設立は持統天皇の時代の措置だそうだ。古事記と日本書紀も、この時に命じられたと思う。日本書紀は、持統天皇で終わる。

では、古代神社の祭祀の本質についてちょっと論じよう。重大なのは、神の祟りということだった。文献に記録された祭祀は、よく祟りを鎮めるために行われたそうだ。特に7世紀後半に、斉明天皇(また女帝)と天武天皇が神の祟りと接して崩御したそうだ。文献でそういうことは直接に書いていないが、崩御の二ヶ月前に「神の祟りで天皇が病気になった」との記録があるから、当時の人もおそらく祟りで崩御なさったと思ったのだろう。

天武天皇の死去の直前に6月10日に占い、いわゆる御体御卜(ごたいみうら)、を行った。それが恒例になって、毎年卜をして天皇には祟りがかかっているかどうかを調べた。祟りがあったら、祟る神社には幣帛や神戸(すなわち、お金や土地)を奉納して、払拭したそうだ。吉田家の伝来で奈良時代からの書類が残るそうだ。これは、祟った神への奉納の記録だ。岡田先生によると、その書類にある神社に一つに参拝してそうだ。それは、そのことについて論文を書いたので、神に祟られないようにお参りして、報告するためだったそうだ。立派な神社だそうだ。

とにかく、奈良時代と平安時代初頭には、神の祟りが肝心になったそうだが、時代が下がる次第、肝心ではなくなった。まず、いわゆる正当の神様、伊勢とか八幡など、より御霊信仰に祟りが移った。菅原道真は最初に御霊信仰の祟り神だった。そして、時間がますます経てば、祟りの関心が殆どなくなったそうだ。ただ、岡田先生によると、岡田先生には古代神道の理解は深いので、祟りは恐ろしいそうだ。

要するに、古代神道の神社制度の中心に、祟りという概念があったそうだ。


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コメント

“神道を知る講座V〜第4回” への3件のフィードバック

  1. 引佐の光のアバター
    引佐の光

    Dear Chart Sahib!
    わたくしは、ごく最近になって神道について知りたいと思うようになりましたので、今回の貴記事を大変興味深く拝読いたしました。わたくしは6年ほどイギリスで暮らしました後、日本に帰国いたしましたが母国である日本への再適合が大変難しく思われました。日本人の考え方が非合理的であるばかりでなく、海外の事情を知らない人が多いために既得権益層により一般の人々が理不尽に利用されているように強く感じました。「日本人はどうして、利用されても文句も言わないのだろう?」という疑問から、日本に関する様々な本を読みまして神道にたどり着きました。そして神道を知って、「なるほど!」と日本人の価値観の根源が分かったような気がしました。日本人の理屈を問わない、あるいは理屈を超越するという考え方の基本は神道にあるのではないかと感じたしだいです。神道の本質について、一体化と調和である、そして理屈を超えた大神への感謝であるということはよく聞きますけれども、「祟り」については貴ブログで初めて知りました。これは、ちょっとショックでした。なぜなら、他の宗教には「地獄に落ちる」というような恐怖による精神の支配がありますけれども、神道には戒律もありませんし、罰則もありませんので、これまで私は神道には恐怖による精神の拘束は無いと思っていたからです。そして、それはとても良いことだと思っていました。「祟り」について、もう少し詳しく知りたくなりましたので調べてみたいと思います。今まで知らなかった神道の側面をお教えくださいましてありがとうございました。

  2. チャート・デイビッドのアバター
    チャート・デイビッド

    引佐の光さん、コメントをありがとうございます。やはり「祟り」というのは、現在の神道で重要な役割を持っていないようですから、見逃しやすいです。その上、他の宗教の戒律や罰則との本質が異なると思います。神が怒ることだけです。人間が客観的に罪を犯したとは限らないのでしょう。といっても、神道の一部ですから、ぜひ勉強したらいいと思います。

    ところで、イギリスで住んだことがありますか。6年間なら、逆カルチャーショックになりますよね。私がイギリスに帰国したら、同じようにカルチャーショックになると思います。

  3. sherryのアバター

    こんにちわ
    台風が通りすかって、外は雨も風も強い状態です

    もっと「祟り」について、詳しく知りたいなら
    村山修一博士著の「天神御霊信仰」本をお薦めです