今日また國學院大學の講座に行って来た。だが、帰ったらタマオ関係のことをしてしまったので講座の粗筋を書くのがちょっと遅くなってしまった。
では、今日の講座は二十二社制度と一の宮制度についてだった。
二十二社時は、伊勢の神宮をはじめ京都や奈良の周辺にある有力な神社だ。この制度が基本的に10世紀に設立されたそうだが、最初に十六社だった。11世紀の半ばまでに最後の二十二社になったが、平清盛が厳島神社を加えようとしたと言った。だが、京の貴族が反対して、果たせなかったそうだ。応仁の乱が始まったら、旅が無理になって、神社への代参も無理になったし、江戸時代になって、上の七社にしかできなかったようだ。それでも、明治時代の有力社が二十二社の間から選ばれたことは多かったようだ。
九世紀に延喜式の中の名神大社に幣帛を奉ったそうだが、300余り社だから、多かったし、遠い神社も入ったので、不便があった。だから、京の周辺の神社に絞られたそうだ。だから、二十二社は殆ど畿内にある。全国には同じぐらいの有力社はなかったというわけではないが、簡単に幣帛神社を選んだようだ。
では、二十二社になった理由は何だったのか。まず、上位三社は伊勢の神宮、石清水(いわしみず)八幡宮、賀茂だった。この三社は、国家的な崇敬を受けた重要な神社だった。伊勢の神宮は、京から一番遠かった。そして、松尾、平野、稲荷は、京接近の神社だった。京自体の鎮守だったと言える。次は、春日(かすが)と大原野は藤原家の氏神様だったので、天皇の外戚の氏神様だった。それから、大和の神社も加えられた。大神(おおみわ)、石上(いそのかみ)、大和(おおやまと)、広瀬、龍田だった。それは旧都の奈良の鎮守などの神様だった。住吉は、外交の神様だった。そして、最初の十六社の最後の二社は大和の丹生(にう)と京都の貴布禰(きふね)だった。この両方が水源を司った神だったが、幣帛は勅使より神祇官の人が行われたそうだから、ちょっと一層下の格をもったようだ。
991年に一条天皇が三社を加えたそうだ。これは、吉田、北野天満宮、広田だった。吉田は一条天皇の外戚の氏神様で、北野天満宮は藤原家の庇護を受けた神社だったので、それも外戚だった。(菅原道真は藤原家の政敵だったし、藤原家の陰謀で左遷され死亡したので、藤原家の守護神になった経緯は興味深いだろう。)広田は、現在の兵庫県に位置され、比較的に遠いが、海賊などの平定に勤めた神様として加わったそうだ。994年に梅宮はまた一条天皇の外戚の氏神様として加えられた。996年に祇園社(現八坂神社)は、疫病のために加わったそうだ。最後は、1039年に日吉神社は加わった。これは天台宗の延暦寺の守護神で、天台宗との融和策だったそうだ。
では、一の宮制度はいかがだろう。二十二社と異なって、全国の旧国にある神社だ。国司、即ち京から派遣された人、がこの神社の祭祀に勤めたようだ。この制度が、11世紀から12世紀に成立されたようだが、不明な点は多い。特に、一の宮の位をめぐる論争は少なくないそうだ。それは、一の宮には二つのタイプがあるからだそうだ。一つは、地元の人が一致する有力神社だ。例として、出雲大社を挙げてもいい。もう一つは、国司の便宜のために国府に近い神社だった。大変マイナーな神社を選ぶわけはないが、論争が発生する場合もあった。
それでは、今回の学界の論争は、二十二社制度と一の宮制度の関係だ。特に、一の宮制度は中央政府が指導したかどうかという点だ。岡田先生の意見は、そうではないということだ。一の宮制度は、地方の人が作ったからこそ記録は曖昧で論争があるという。反論するのは、一人の学者だそうだが、まだ主張するそうだから、まだ論争が続くらしい。参考文献は紹介されたので、時間があったらより詳しく調べたいと思う。
ところで、岡田先生による、今年までの神道講座は入門的だったが、今年が急に最先端の研究と取り組むことになった。確かに内容がより深くなったので、興味深いと思う。これから夏休みだが、秋の続きを楽しみにしている。