神道を知る講座V〜第7回

今日國學院大學での神道講座が再開した。夏休みの前の六回を前半にして、古代の論争を紹介してもらったが、これからの4回を後半にして、中世以降の論争をテーマとするようだ。だが、主題に入る前に岡田先生が夏休みの出来事についてちょっと話した。

浜松に行って、発掘調査の結果を見たそうだ。祭具の発掘だったのは言うまでもないが、その間案があったそうだ。その案は、現在神社で使われる案とほぼ同じだそうだ。発掘されたものの年代は?5世紀だ。神道で「昔のまま」の伝統を続けるのは主流だと岡田先生が述べた。だが、もう一つのことに気づいたと言った。お供え物は、鉄で作られた物もあった。5世紀には、日本製の鉄はなかったし、最先端の技術だった。要するに、再新品を供えたそうだ。現在に例えたら、液晶テレビを供えるようだ。岡田先生が初めてこのように神道の神事を考えたと言ったが、神道に新しい神事を入れても神道の破壊ではないだろうかという雰囲気だった。

さて、今日は神仏習合の入門と黒田俊雄氏の神道論批判だった。時間を半分ずつにした。

神仏習合は、神道と仏教が絡み合って、影響をお互いに与えた日本の宗教の事実だ。奈良時代から明治維新まで主流は神仏習合だった。神仏習合には、二つの形があったと岡田先生が論じた。

先ず、神のための習合だ。これは、神宮寺のことを指す。岡田先生によると、これは神様の霊験を高めるために、新しく大陸から輸入された祭祀を使うことだった。神祭祀の観念の延長線上のやり方だったそうだ。神宮寺が初めて現れるのは、経済力が強いところだそうだ。理由として、神社は安いが、お寺には大変な費用がかかるということを挙げた。確かに、特に神社建設の前の古代に、神を祭るに費用は少なかっただろう。

もう一つな形は、仏のための習合だったそうだ。これは、お寺の鎮守などのことだ。神様が勧請され、お寺などを見守ることだ。有名な例は、東大寺の八幡神社だ。

このなかで、神仏隔離が続いたと岡田先生が主張した。石清水八幡宮のような神仏習合の味が濃いところでも、神職の祭る場所とお坊さんが祭る場所が区別されたそうだ。神か仏かかまわないというわけはないそうだ。例えば、神社で僧侶が神前でお経を読んだことは普及されたが、逆に神職がお寺に入って、仏像の前で祝詞を読むことはなかったそうだ。岡田先生が知っている限り、史上初のお寺での祝詞は、今年の五月に高野山で行われたそうだ。神道が時間とともに変わりつつあるので、「いいのかもしれません」と先生が言った。歴史的におかしいけどと注意したが。

では、黒田俊雄氏の神道論は何だろう。黒田氏が提唱した有名な歴史的な解釈はいわゆる顕密体制だ。それは、中世の仏教の形は、基本的に真言宗と天台宗のしたで秩序されたという学説だ。仏教史で普通の意見になったそうだ。特に日本以外の学者の99%が維持すると岡田先生が言った。

神道について、黒田氏が「神道なる言葉でいわゆる独立の宗教は現実に存在しなかったのであって、あったのは儀礼の系列だけである」と主張した。これは1975年に発表した学説だが、当時の岡田先生には強い違和感があったそうだ。それは驚くほどではないだろう。結論に近道したら、批判は三つある。

まず、神祇の存在について過小評価をして、神祇を直接に検討しなかったことだ。いつも仏教の史料から神道を検討したので、神道が仏教の一部として現れたという。

次は、普遍宗教の仏教を優位にしたことだ。近代的な宗教観念だそうだ。要するに、日本に土着する神道より、普遍的に適切にする仏教が優れる意見だ。

最後に、「神道」の語義を狭くしたそうだ。近代的な宗教ではないなら、存在さえ否定したそうだ。だから、黒田氏によると、神道が成立されたのは、15世紀の吉田兼倶の時代だったそうだ。独立した教説がある神道は確かに吉田神道で初めて見えると言えるだろうが、その前にも神道があったと岡田先生が強調した。

要するに、仏教史の学者が神道史を誤解してしまったと言える。よくあるパターンだ。専門の範囲から学者がちょっとだけはみ出たら、深く間違えることは多い。

最後に神道の成立期についての様々な説を紹介したが、岡田先生が維持するのは七世紀後半・八世紀説だそうだ。天武天皇と持統天皇の時代に神祇令などで今まで伝わった祭祀体制が設立されたからだそうだ。(式年遷宮や大嘗祭はこの年代で始めたそうだし。)だが、五世紀古墳時代成立説もあるそうだし、演説の頭に紹介した発掘された案を考えたら、この説も無力ではないだろう。だが、認めなければならないのは、仏教やキリスト教のような宗教に神道がなったのは、15世紀だったとのことだそうだ。

いつもの通り興味深い講座だった。次回も楽しみにする。


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