歴史信仰

今月のフォーサイトの記事を昨日読んだが、前にも考えたことをもう一度考えさせられた。記事は、邪馬台国論争についてだった。五月に新しい考古学の発見で、奈良県の箸墓は三世紀半ばに築かれたと発表されたが、それが卑弥呼と邪馬台国の時代と重なるのはご存知の通りだ。だが、北部九州説を支持する学者が強く反発したそうだ。実は、記事の作者は北部九州派だそうだが、この論争が信仰域に入ったと述べた。作者が、九州での講演で、北部九州からの中国への使いが偽って「私たちはヤマトだ」と言った可能性を指摘したそうだが、視聴者が青ざめでショックを受けたと述べた。こういう歴史信仰があったら、論争の解決が無理になると認めて、実情を歎いた。

確かにこのような歴史信仰は日本に限らない。実は、世界中に見つかる。ヨーロッパで、特に東部ヨーロッパには強いようだが、イギリスにも見える。なぜ強くなるのだろう。

私の仮説は、不安定な世界と関わることだ。国や地域の現状は良いにしろ、悪いにしろ、すぐに一変変わる恐れがある。だが、歴史はもう変わらないと思える。過去だから、これから何をしても、過去は安定だ、と思われるだろう。だから、自分のアイデンティティ、国民のアイデンティティを安定の歴史の上に築いたらいいと思う人は少なくない。歴史に頼れると思う人は多いだろう。

だから、あの歴史信仰を批判したら、必ず堅固だと思われたアイデンティティの基礎が揺らぎ始めるので、人も不安になって、強く反発してしまう。現状が全く変わらないのは言うまでもない。邪馬台国は奈良県でも、北部九州の現状は今のままだし、北部九州でも、箸墓の姿が消えない。だが、好きうなくともこれが安泰だと思われた所が揺らいだら、やはり神経的に強い不安を感じるのではないか。

別に仮説の証拠はないが、私には説得力がある。(自分の仮説だからだが。)

実は、歴史、特に古代史、は、薮の中だ。一つの発掘調査で今まで長く続いてきた定説が一変させることは珍しくない。近代史でも、史料の発見や比較で解釈が大きく変わることもある。国民のアイデンティティ、信者のアイデンティティ、市民のアイデンティティは、現状に基づくべきだ。過去が案外揺らいでしまう。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: