今日は今年度の最後の講義だった。テーマは吉田神道の原始だったので、吉田兼倶が主な話題になった。講義の最初に岡田先生がちょっと説明した。次のような内容だった。
「私は、歴史的な人物、即ち亡くなった人、を非難することは好きではない。だが、吉田兼倶のことを語ると、言いたくなることもあるので、ちょっと批判すると思う。だが、吉田兼倶の祟りに遭う恐れがあるので、先週京都に行った時に吉田神社にお参りして、吉田兼倶が祭られる吉田神社の末社にもお参りして、事前報告したり、お許しを求めたりした。だから大丈夫だと思う。」
やはり、ちょっと批判する点はあった。
では、吉田神道とは、何だろう。十五世紀後半に吉田兼倶によって創出した新しい神道だと岡田先生が述べた。江戸時代になったら、神社世界を支配するようになったが、最初はそうではなかった。一番早く作られた文書で、吉田家の神道を神職や僧侶に伝授しないように書かれている。あのとき、吉田兼倶が貴族世界で吉田神道を広げた。後で神職や禅の僧侶にも伝授したが、神道の支配者になる予定は最初から持ったわけはないようだ。吉田神道の特徴は、儀式、吉田神社にある八角堂の大元宮、そして神職の支配だったそうだ。その原始を探れば、以下のようになるそうだ。
吉田家は亀卜を行った卜部家の一流だった。学問も励んだそうだから、中世までに神祇官の次官になったという。兼倶は、32歳まで普通の高級神官のキャリアがあったそうだ。中世の最後の大嘗祭でも勤めたようだ。だが、兼倶の人生が応仁の乱と重なったので、平和な道を歩めなかったそうだ。応仁元年(1467)に吉田家の邸宅が強盗と放火にあったし、よく二年に吉田神社が焼失するし、近所の人の十数人は殺されたという。兼倶の人生の意義が急になくなったとも言える。
文明二年(1470)二月に最初の吉田神道の資料を作成したようだ。そして、吉田神道の秘伝伝授がよく文明三年から始まったようだ。最初は、貴族や神祇官の人に伝授したようだ。そして、吉田家の屋敷の敷地のなかで祭場所という霊場を作ろうとした。これは、神祇官の祭祀を行う場所だったが、兼倶の支配で現れるのは文明二年だ。文明五年に、天皇から許可を得るために偽作公文書を提出したようだ。ここで、岡田先生が兼倶を批判した。家伝を偽造したことはともかく、公文書を偽造するのは良くないことだと主張した。
この時期、兼倶が貴族の間に重要な役割を負担し始めたそうだし、それに将軍家(当時は足利義政)の祈祷師のような役割も担った。将軍家からの支援や援助を貰ったのはいうまでもない。その環境の中で、兼倶の独特な大元宮という施設を建立した。それは、文明16年に建てられたそうだ。
この神社は、八角堂で、丸に近づく建築だった。神社の間に極めて珍しい設計だが、兼倶の普遍的な考えから発生したのだろう。八角堂には、日本書紀で最初に出てくる国常立命が祭られる。そして、周りの通路に全国から勧請された神々が祭られる。勧請されたのは、式内社の神々だったそうだ。それに加えて、伊勢の内宮と外宮も勧請して、祭った。それは、勝手にしたことだったので、吉田家と神宮との間の軋轢が発生したそうだ。
吉田神道の隆盛期は、兼倶の子孫の兼見や兼右の時代だったそうだが、兼倶が基盤を敷いたことは否めない。
岡田先生が指摘した点は三つあった。
先ずは、吉田神道は本当に新しい神道だった。古代からの流れを汲んだが、兼倶の発想によって創出された。仏教、儒教、陰陽道の影響は強かった。といっても、初めて教説があり、霊場があり、支配者がある組織が神道の中で現れたので、宗教としての神道誕生と言う人もいるそうだ。(岡田先生が奈良時代まで遡る説を擁立する方だが。)
そして、兼倶が公文書を偽作したということ。結果はともかく、方法を批判するしかないという。
最後に、もう一つ批判したことがあった。それは、祭祀権を侵したことだ。元々天皇家の氏神を祭るのは天皇家のみだったし、地方豪族の氏神を祭るのはそれぞれの地方豪族だったと岡田先生が主張する。だが、兼倶が全国の神々を勝手に集めて、祭った。延喜式でも、地方の神々を京で集めることはなかった。むしろ、朝廷から神社へ勅使を派遣した形をとった。兼倶がその伝統を崩したという。
だが、吉田神道の影響は、現代の神道にも見える。吉田家の支配は、神社本庁の支配の全身としても見えるからだそうだ。
では、今年度はここで終わるが、来年度に神社神道の信仰のベスト・テンを紹介するつもりだそうだ。春日信仰から八幡信仰まで紹介する予定だそうだ。興味深い話題だと思うし、中央の神道祭祀からちょっと目を離れさせる話題だから、大変楽しみにしている。