差別を見るに

最近先進国の社会が差別に敏感になった。それはいいことだと私が思う。前は、差別があったが、殆ど「差別ではなくて、事実だ。女性の能力や自己管理力は男性に劣るし、黒人はよく考えられないし、ユダヤ人はキリスト教徒の殺害を謀る」と人が思ったり語ったりした。その三つの点は嘘で、差別の証拠だったのに、気づいた人は少なかった。だから、今でも思わずに差別が続く可能性はないとは言えない。敏感になったら、発見するチャンズが増す。

だが、「知らずに差別する」ということは問題になりがちだ。なずなら、知らずに差別する人は、差別するとは思わないからだ。それは当たり前なのように見えるが、意味は、「それは差別だ」と言われたら、「いや、差別ではない。そういうものか!」ということだ。そして、証拠を挙げるのは難しい。その場で言われたことを検証するのは普段に無理だし、もし態度の問題が訴えられたら、明らかな真実はない。「私は日本人であれば、そういう風に聞かなかったよ」と言っても、「いいえ、同様に聞くぞ」と答えたら、決める証拠はどこにあるのだろう。

この問題をより深刻にする状況もある。それは、自分のような人や自分が関わっている人に似ている人に対する差別には、人は特に敏感な状況だ。イギリスで、白人の男性が「白人男性に対する差別はまだ唯一の認められている差別だ」という。カトリックの人が「カトリックに対する差別はまだ唯一の認められている差別だ」という。ユダヤ人は、まぁ、もうパターンが分かっただろう。皆が正しいことをいうわけはない。皆が他の差別と判断された行為を見ても、差別だと判断しない。実は、イギリスの新聞で黒人が「黒人なら、人種差別は無理だ」とはっきり言った場合もあった。それはないだろう。人種的な偏見を持つかどうかは、皮膚の色とは無関係だ。だが、そう考えたら、白人に対する人種差別は見えなくなる。

その上、敏感しすぎて、差別はない場合でも差別を看做すことはなくはない。悪い態度と遭ったら、「差別だ」と判断する傾向はあるだろう。日本に住んでいる外国人の内にそういう人はいるようだ。(明らかな人種差別に遭った人もいるけれども。全世界の国と同じく、日本には人種差別は全くないわけはない。)

だから、差別される人以外は、差別に気づかない傾向がある。差別される人は、幻の差別を見る傾向がある。どうやって区別するのだろう。

一つはルールだ。例えば、「外国人はこういうことはできない」とのルールがあったら、人種差別だと言える。

もう一つは統計だ。ある人種には社会的な損害が多く負担されたら、差別がある可能性は高い。

だが、ルールや統計に表れない差別もある。それはどうしたらいい?難しい問題だと思うが、次のように考えたらいいだろう。先ず差別の被害者の意見を、差別の存在について尊重すべきだと思う。差別するつもりはなくても、知らずに思わずにそういう印象を与えるのもよくない。問題の原因は精神的な差別には限らないので、ちょっと落ち着いて客観的に見た方がいい。

一方、問題の深刻さについて、被害者の意見を別に尊重しなくてもいいと思う。自分の被害は特に酷いと思うのは人間的な傾向だから、客観的に見る必要がある。注意はまだ必要だ。加害者の意見も客観的ではない。だから、お互いに考えて、他の人の意見を聞いて、解決に向かうのは重要だと思う。