私の理想を考えたら、創造と理解だと思う。私が、自分の人生でやりたいことを考えたら、理解か創造かに分けられる。他の人と関わることはちょっと別だから、最後にちょっと触れるつもりだが、まずは自分だけが関わることについて書きたいと思う。
理解は解りやすいだろう。何でもいいので、単純に理解したいのだ。言語を勉強することは、言語や文化が理解できるためだ。毎週Natureを読むのは、先端科学が理解できるためだ。日本史を勉強することも、神道を勉強することも、哲学を研究することも、理解のためだ。実は、私の博士号の卒論の話題は、「理解の論理」だった。理解も理解したいのだ。
もちろん、仮に私の能力を無限としても、時間には制限があるので理解できないことが余儀なく残るので、理解しようとする分野を選ぶ必要がある。そして、私の能力は無限ではないので、私には理解できないこともあることに覚悟しなければならない。数学にはそういうことがある。私の数学の能力は別に優れないので、深い数学は理解できない。だが、そういうことを除いても、理解できることは十分あるので、目標を失うわけはない。
ここで注意してほしいのは、理解は何かのためにしたいのではなく、理解のために様々なことをすることだ。理解は目標の一つだ。
もう一つは、創造だ。新しいことを作るのも目標だ。「モノ」より「コト」を言う理由は、広い意味で捉えることだ。小説を作成することはもちろん創造に入るし、論理を発想することも創造だ。理解に基づいて新しい説明を発想することも、創造の一つだ。私的に、抽象的なことを創造する方が好ましい。例として挙げた小説、論理、説明は、典型的だろう。物作りには違和感や抵抗感は全くないが、才能はないようだ。だから、自分に向いている創造を選んだ。
理解と同じように、これは何かのために創造するのではなく、創造できるために様々なことをすることだ。目標だ。
他の人に対して、もちろん理解したいのだが、創造は別に目標ではない。(真由喜の創造に貢献したと言えるが、それは例外だ。)むしろ、他の人が自分で理解したり創造したりできるようにつとめたいと言ったら、より妥当だ。他の人を幸せにしたいと言ったら、確かにそうだが、具体的に考えたら、やはり私の理想から考える。だから、理解や創造に興味を持たない人は、私には支援できないだろう。ただ、応援できるかもしれない。スポーツなどは悪くないと思うが、理想と外れて、支援する方法さえ解らない。
ここで、いよいよ何のためにつとめるかに答えられる。他の人が幸せになって、自分で理解したり創造したりできるようになるためにつとめるとの答えだ。教えたら、直接な関係がある。私が教えることを理解するのは授業の目標だからだ。そして、その理解を使って、人生をより良くしたら、幸せになる人もいたら幸いだ。真由喜の子育ての場合、関係は間接だろう。もちろん理解を促進する場合もあるが、真由喜が真由喜らしいいい人生を造ることを支援する。
人生造りも、創造の種類だと言えるだろう。なんでも、私の理想の枠で見てしまうね。