子供を守るのは大人の宿命でもあり、社会全般の役割の人とでもあると思う。子供は未来だ云々というのは聞かれすぎて意味を失いそうだが、それでもまだ本当のことだ。だが、子供を守ると言うのは、具体的にどういう意味なのか。
二つの側面があると思う。一つは、外来の災いから守ることだ。これは、子供の場合より慎重にするかもしれないが、基本的に大人の場合とは異ならないと私が思う。戦争や犯罪に遭わないように努めるのは、無差別な社会的な目標だろう。これにも問題があるかもしれないが、明らかな方だと思って、きょう論じないと思う。
もう一つの側面は、子供を自分の失敗から守ることだ。これは、大人の場合と異なる。大人の場合、自由主義に基づいて、失敗させた方がいい。その上、大人が自分で失敗を選ぶのは権利だ。なお、社会ができるだけ大人の失敗の結果を抑えたほうがいいが、避けられない結果をそのまま認めるしかないと思う。子供の場合は別だ。子供は、将来をちゃんと考えて判断することはできないので、つい長期的な悪いことを起こさないように社会の構造を構えたほうがいいのではないだろうか。
勿論、問題は子供と大人の間の境だが、若くても満12歳(日本の昔の元服に当たる)、高くても満21歳(イギリスの昔の成年年齢に当たる)と言ったら、ここでいいだろう。広い範囲だから、具体的な年齢を選ぶには論争があると推測できるが、その間じゃないとあり得ないだろう。
さて、子供を守る社会の構造は何だろう。一つは、危うい決断を禁じることだ。未成年者にタバコやお酒を禁じるのは、このことだ。お酒を飲んだら、アルコール依存になる恐れがあるし、子供の小さい体にはそのような恐れはより多いかもしれないので、子供の間に将来にこのような大きな問題を設けないように禁じる。ローンを組むことを禁じるのも、同じ考え方だと思う。
そして、子供が有りがちな傾向を直すための方針もある。学校の義務化はその一つだ。教育を受けなかったら、将来は暗いが、子供は学校より遊びが好ましいので、強制的に通わせないなら教育を受けない子供が多くなる可能性は極めて高い。
また、子供が失敗をするので、それを認めて、失敗が子供自身や周りの人に大変な結果を齎す場合、そのような行為を禁じる。子供の運転はいい例だ。自動車の操作ミスで、自分の命を終えて、他の人を殺す可能性もある。だからこそ、アニメ以外子供に強力な武器を与えない。
最後に、子供の失敗が社会の重い罰に当たらないように構造を構えたほうがいい。それは、未成年者が犯罪を犯しても、大人と異なる裁判や刑罰を科すことになる理由だ。幼児が万引きしても、起訴しないのは当たり前だろうが、それもこの理由だ。
この四つの原理に反対する人はいないだろう。一方、具体的な意味を考えるには論争があるはずだ。例えば、本格的な山登りで、失敗したら落ちて死ぬので、子供に禁じたほうがいいと言えるだろう。その提案に反対する人がいるはずだ。問題は、リスクの大きさと子供への経験からの利益のバランスを考える必要があることに基づく。例えば、サッカーで失敗して、致死事故に遭う可能性もあるが、可能性は低いので、子供に禁じる必要はない。山登りを推進する人が、大人の安全の準備を見守ったら、山登りもそれほど安全だと主張するだろう。
だが、漠然的に「子供を守ろう」というより、具体的に原理の一つに基づいたら、論争がより進むのではないかと私が思う。