
大山街道の出発点に近い豊川稲荷。実は、神道の範疇に入れたのに、正式にいうと曹洞宗のお寺だ。本尊はだきにしんてんという。もともとの豊川稲荷は、愛知県にあるお寺だが、この別院は明治時代に建立されたそうだ。

お稲荷さんといえば、神道だと思う人は多いだろう。確かに、現代のお稲荷さんを祭る施設の大半は神道に属する神社だ。じつは、圧倒的に神道の方に傾くとも言える。だが、江戸時代に遡ったら、ご存知の通り所謂神仏習合が日本の宗教の基本な形だった。豊川稲荷はその名残だと言える。だきにてんは、仏教の神話でもともと夜叉だったが、仏教を擁立するようになった。(仏教の神話には詳しくないので、経緯を書かない。)絵画で白い狐に乗る図は多いが、それが稲荷との習合のきっかけか、結果かは不明だそうだ。江戸時代に、普通の稲荷社には仏教の色は濃かったようだから、この豊川稲荷のように見えただろう。

だが、明治維新で神仏分離があって、宗教施設は、神道か、仏教かとはっきり決める必要が生じた。稲荷の施設の殆どが神道にしたが、例外があった。これは、その例のひとつだ。戦前に正式に神様は祭られていないはずだが、戦後の宗教自由に伴ってまた現れたようだ。境内に鎮座する神社は、本堂とほぼ同じ規模で、参道も幟で目立つ。だが、神殿のなかに見たら、仏教的な飾りがあるし、本堂から聞こえるのは、祝詞ではなく、お経だ。狐の石像は多いし、鳥居がついた祠も少なくないが、一方観音も地蔵もある。そして、神社のところの後ろに七福神の石像が並ぶ。仏教というより、やはり神仏習合そのものだ。
参拝者はまだ多かったが、違和感なく参拝したようだ。確かに現代の日本人には神道の施設と仏教の施設を見分ける能力はあまりないので、違和感を感じるはずはないだろう。私にとっては、江戸時代の神社やお寺はこのような雰囲気だったのかという感じだった。
