大山街道の次の神社は、池尻稲荷神社だった。かなり広い境内を持つ神社で、看板によると旧池尻村の産土神だそうだ。
明暦年間(1655〜1658)に鎮座されたそうだから、江戸の早期からあった神社だ。お稲荷様というのは、言うまでもない稲の神様だが、商売繁栄の神様にもなって、江戸で大人気だったそうだ。だが、現在の状況にはちょっと珍しい側面もある。社殿の写真に伊勢の神宮の式年遷宮の幟が見えるが、それは神社本庁が所属神社に頒布するものだと思う。それに加えて、社頭に置いてあったチラシのなかに、伏見稲荷大社が刊行した情報誌もあった。
それはなぜ珍しいかというと、伏見稲荷大社は神社本庁に属していない神社で、普段は伏見稲荷大社に属する神社は神社本庁に属しないと思ったからだ。それはまだ普通だと言えるかもしれないが、少なくとも池尻稲荷神社は例外だ。
ご存知の通り、明治時代に所謂社格制度があった。一番上は伊勢の神宮だったが、特別で社格はなかった。社格の一番高いのは、官幣大社だった。下の方に「村社」という社格があった。池尻稲荷神社が村社になったようだが、入り口にある石碑にそれを刻んだ。だが、戦後その社格制度は廃止され、神社が独立して宗教法人になった。写真から見えるように、石碑に刻まれた社格は、後で削られ隠そうとされた。こういう風に神社の名前を表す石碑は多いが、これで初めてわざわざ社格を消去された石碑を見た。なぜそうされたか分からないが、神社神道の歴史の一部が見える石碑だ。
神社の歴史には、大山街道の辺りにあったことは重要だったようだ。境内にある看板によると、旅人が参拝したので、神社の特に盛んになったそうだ。それにちなんで、旧大山街道に面する入り口で、旅人の銅像がある。なぜ子供の銅像になったか分からないが、この稲荷神社は「子育て稲荷」としても崇敬されたそうだから、それと関係があったのだろう。ちなみに、「火伏稲荷」とも言われたそうだが、火事は大変恐ろしい存在だった江戸で、火伏の神徳がある神社は少なくない。
境内には井戸があるそうだし、その井戸は霊水だと言われる。だが、帰ってから案内板を写真で読んだ時に分かったことだから、現場で井戸を見なかった。その霊水の資格は、伏見稲荷の託宣によるものだそうだが、詳しいことは分からない。やはり、どこの神社でも、このようにちょっと明らかではない歴史などがあるはずだ。私も、旅人だったので、表面しか見えなかった。