昨日國學院大學での神道講座の第二回が行われた。今回のテーマは、日吉信仰だった。日吉(「ひよし」、または「ひえ」)大社は滋賀県に鎮座する、京都の表鬼門の守護神で、天台宗の本山の延暦寺の守護神でもある。講義の主な内容は、日吉大社の源と現状だった。岡田先生が奈良市と日吉大社に講座のために写真を撮りにいらっしゃってくださったそうだから、写真を見せながら説明してくれた。この投稿では写真はないので、予めご了承ください。
講義に強力をしたのは、猿さんの人形だった。日吉大社の大神の使いは猿だから、その縁で参加させたそうだ。猿がもう一回出てきたが、それは日吉大社での楼門の写真だった。屋根の軒のしたには、猿の彫刻がある。宮建築の重なる棒の間から、猿の顔が出た。猿さんの人形は、机は狭いので、鎮座の場所を岡田先生が変えさせてもらった。
では、日吉信仰は、非常に複層的な信仰だそうだ。先ずは、古事記に登場する神様から始まったが、延暦寺の守護神になったので、天台宗との関わりはとても深かった。その上、北斗七星の信仰の影響も受けたそうだ。勿論、明治維新の神仏分離で”純粋”な神道にさせたが、岡田先生によると往古からの神道の形式がまだ日吉信仰に残るそうだ。
古事記の文献から始めよう。古事記によると、大山咋神(おおやまぐいのかみ)が「日枝山」に鎮座するそうだが、この「日枝山」はどこなのか、論争の焦点になるそうだ。比叡山だというのは当然だろうが、日吉大社はちょっと比叡山の中心的な地域から離れているし、「八王子山」という山に鎮座する。だから、八王子山を指す可能性もあると岡田先生が指摘した。実は、古代の神体山は、岡田先生によると、小型の山である傾向は強いそうだ。三輪山も高くないし、春日大社の三笠山も、後ろの春日山と比べたら小さいのだ。それを踏まえて、岡田先生のご意見は、もともと八王子山に鎮座したということで、古事記の「日枝山」は八王子山を指すと言った。
そして、延喜式にも名神大社として登録されるが、一座しか登録されていないそうだ。だが、現代の日吉大社には200以上の神社があるので、その間どちらが式内社かは問題になる。摂社や末社のような資格を持つ神社を除いたら、所謂東本宮と西本宮が残る。東本宮には大山咋神が鎮座するが、西本宮には大神神社の大己貴神(おおなむちのかみ)が鎮座する。だから、延喜式、即ち朝廷の崇敬、がどちらの神社を対象にしたのだろう。岡田先生によると、日吉大社の場合、はっきりする文献が現存しないそうだが、高野山と同じ関係を持つ丹生神社の場合、証拠がある。丹生神社でも地主神と後で遷座した神が鎮座するが、延喜式がはっきり新しく鎮座した神を指す。だから、日吉の場合も、同じように朝廷と縁が深い大己貴神が対象になったのではないかと言った。
それから、写真参拝になった。日吉大社には七つの神社があるが、それは北斗七星の信仰と繋がれたそうだ。三つは、八王子山の山麓に鎮座するが、二つは山頂に近くある。日吉大社の神殿の形式は日吉造りという形だが、仏教の建築の影響を受けて、入母屋のような屋根を持つが、北側には単純に流れるそうだ。神殿にはまた二つの興味深い点があるという。
先ずは、祝詞を奏上する位置だ。現在、神殿に昇る階段の上で神職が跪いて奏上するが、昭和初期の写真を見たら、階段の下で、畳石の上に跪いたようだ。岡田先生によると、それはもともとの神道の習慣を表すそうだ。本殿に上がらずに、庭で拝むことは原型だったそうだ。だが、生活が変わって、もう土の上に長い間正座できる神職さえ少なくなったそうだから、まだ正座を求める神社は少ないという。(ところで今年の集団参拝の明治神宮は例外だそうだから、参拝まで正座を練習したほうがいいと戒められた。)
次は、神殿の床の下のところだ。神殿のような部屋が設けられたそうだ。神仏分離まで仏像が安置されたそうだが、それは勿論もうない。今は、特別な参拝や参籠に使われているそうだ。一つの社、樹下神社、の下には、井戸がある写真を見た。井戸の位置はご神体が鎮座するところの直下だそうだから、その神社はもともと井戸の神様を祀ったのだろう。今の祭神は、賀茂神社の玉依姫だから、水と関わる神様だ。
ところで、八王子山の上の神社の祭神は、この玉依姫の荒魂と大山咋神の荒魂を祀るそうだ。荒魂と和魂(あらみたまとにぎみたま)の区別は神道の神観念の中で興味深い点の一つだ。
今日の講義がいつものように大変勉強になった。次回も楽しみにしている。