神道を知る講座VI〜第3回

神道の信仰のベストテンを上り続ければ、白山信仰に辿る。「白山」というのは、「はくさん」でも「しらやま」でも読まれるそうだが、岡田先生が普通に「はくさん」と言った。ただ、石川県に鎮座する白山比咩神社は、「しらやまひめじんじゃ」と読むようだ。この信仰は、岡田先生には特に馴染みのない信仰だそうだ。その理由は、二つある。一つは、特定な地域に広がる信仰だからだ。白山は、石川県、岐阜県、福井県をまたがる山脈だから信仰はその周辺に集中される。関東地方には白山神社は少ないのだ。もう一つは、白山信仰が仏教と密接したし、修験道とも関わったので、明治維新以来の神道とちょっと離れた存在だからだそうだ。

だから、僧侶の話も多かったし、本題に入る前に岡田先生が神仏習合について説明した。その説明も興味深かったので、要点を書く。

先ずは、神道と仏教は類似する信仰だから長い間習合したと思われると言ったが、そうではないと主張した。むしろ、神道と仏教は大きく異なって、お互いに欠点を補ったと言えるほどだ。だから、神道と仏教は夫婦のようだった。かなりいい夫婦だったことは、神仏習合が千年以上続いたことから分かるが、明治維新で中央政府の神仏分離令で離婚させたそうだ。しかし、現状を見たら、仏教界と神社界の共同行動が増えているので、再婚になる可能性は高いという。

白山信仰は山岳信仰の一つだが、山岳信仰には神道と仏教の異なる要素が見える。神道も、仏教も、山を聖地として看做したが、態度が大きく異なった。神道は、山は霊地で、入ってはいけないと思った。神社は、山の山頂ではなく、里の平地と山の境界に鎮座したそうだ。山他界という思想で、山には祖先の魂が棲むと思われたという。一方、仏教で山に籠って修行することは、悟りへの道として評価されたようだ。だから、日本の霊山を開いたのは、仏教の僧侶だった。

白山は例外ではなかった。伝承によると、717年に泰澄という僧侶によって開かれたそうだ。これは役行者の十数年後のことだから、かなり早い時期だと言える。だが、岡田先生によると、史実との関係は明らかではない。泰澄の記録は、『泰澄和尚伝』(たいちょうかしょうでん)という書物にあるが、それは鎌倉時代に作成されたようだ。出身地と死亡したところは両方とも越前の国、現在の福井県、にあるし、白山との繋がりは古いので、それほど信憑があるだろうと岡田先生が言った。だが、考古学などの成果に踏まえて、白山での組織的な信仰が9世紀半ばぐらいから始まったそうだ。それは、日本全国の修験道と同じ時期だから、信じ難くないが、泰澄の時代から百年ぐらい下がった時代だから、泰澄が白山の修験道を結成したというのは難しいだろう、という結論だった。

そして、白山信仰が前回の日吉信仰と深く繋がっていたそうだ。両方が天台宗と密接になって、日吉神社も北陸地方には多いという。これは荘園の制度の影響も表すと言えるだろう。延暦寺の領域の荘園は、北陸には多かったので、日吉信仰が北陸に広がったし、それに北陸で天台宗の僧侶が白山信仰と出会ったのだろう。

白山信仰の神社自体を考えれば、三つある。馬場(ばんば)というところだが、山の境界にやはり鎮座する。加賀馬場は白山比咩神社で、唯一の式内社で加賀の国の一の宮にもなったから、明治以来本宮に据えられた。だが、それに加えて越前馬場(福井県)の平泉寺白山神社もあるし、美濃馬場(岐阜県)の長滝白山神社もある。歴史的に調べたら、平泉寺白山神社のほうが有力的なのようだ。考古学の発掘調査の成果で、最盛期には3000人程度の僧侶がいたようだし、前に書いた通り泰澄が越前で活躍したようだ。この三つの馬場は、山に分かれて、夫々の川の流域に影響を広げたのではないかと岡田先生が言った。だから、愛知県や静岡県に鎮座する白山神社は、美濃馬場と繋がっていたと推測してもいいだろう。江戸時代にはかなりの権力競争があったそうだが、現在はそうでもないだろう。

最後に、祭神のことだが、白山比咩神社の祭神は今菊理媛命(くくりひめのみこと)だと言われるが、イザナギかイザナミかとの説もある。実は、菊理媛が祭神として初めて文献に出てくるのは、室町時代の『大日本一宮記』という吉田神道によって作成された書物だそうだ。だから、もともと菊理媛ではなかった可能性は高いと岡田先生が言った。実は、元来「白山比咩」という水源の神様だったのではないかと言った。

いつものように大変勉強になった講義だったので、また次回を楽しみにする。


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