神道を知る講座VI〜第四回

昨日神道講座の第四回が行われ、課題は祇園信仰だった。祇園信仰と言えば、思い浮かぶのは京都の祭りだろう。それは講義にも重んじられたが、もう一つの重要なポイントは、神仏習合のことだった。祇園さん、今八坂神社というが、もともと神仏習合の色は濃かったそうだ。

先ずは、旧名の「祇園」は、仏教の用語だそうだ。インドに或る釈迦様が修行したところの名前で、仏教と一緒に日本に伝達したという。そして、創立は、僧侶によってだったそうだ。それに、早期に寄進した藤原基経が自分の邸宅を所謂喜舎として寄進したそうだ。神道では、元住宅を神社の本殿にすることはあり得ないが、仏教で推進される行為だと言う。最後にご祭神は、牛頭天王という神様だったが、牛頭天王はインドから中国経由で日本に伝来した神様だ。神殿の隣に薬師堂もあったし、本尊はまだ京都にあるお寺で安置されるそうだ。

とはいっても、最初から神殿が中央に置かれたそうだし、薬師堂より大きかったようだ。だから、仏教の影響は極めて強いことは否めないが、最初から神道の範囲に入ったと言える。

建立は876年だったそうだが、877年には疫病があって、藤原基経が寄進して、お寺を安定したそうだ。お寺の名前は、観慶寺だったが、それは876年の年号の貞観(じょうがん)18年と877年の年号の元慶(がんぎょう)元年から来たので、国家と関わりがあるお寺の標になるそうだ。だから、最初から朝廷との関係は近かったし、疫病とも関わったようだ。

神殿の隣に清水が湧いてくるそうだから、夏になって、疫病が流行る時期にお水が必要になる現実から、夏の祇園さんの祭りが疫病払拭の意味を持つようになったのではないかと岡田先生が言った。だが、祇園祭の始まりはいつだったのだろうか。社殿によると、869年だったが、それは神社の建立の前出し、記録は後世の書物だから、信憑性は乏しいそうだ。より信憑性のある文献から見たら、970年には祭りがあったそうだが、お旅所がない限り恒例な行事になれなかったと岡田先生が主張した。お旅所の設立は、974年に大政所の旅所が設立されたとの記録があるので、恒例の祇園祭は974年から現在まで辿ってきたのではないかという。

現在の祇園祭は7月17日から7月24日までだが、山鉾の行列は正式に見越しの渡御の準備に過ぎない。そして、祭りの目標は、神様の力を増すことで、神様が力が頂点に至るのは、祭りが終わった翌日だと言える。と言っても、例祭は6月15日に執り行う。

謎は、旧暦で解ける。旧暦で祇園祭は6月7日から6月14日までだったし、天皇の祇園臨時祭は6月15日に執り行われた。暦の変更に伴う、祇園祭が季節を保って、例祭が日にちの数字を重んじたので、バラバラになってしまったそうだ。

最後に、ご祭神のことだが、現在のご祭神はスサノオとされるが、それはなぜかというと、蘇民将来の伝説に基づくそうだh、播磨風土記に著されたこの伝説は、神様が貧乏な蘇民将来にもてなしをしてもらって、恩返しとして疫病から蘇民将来とその子孫を守ると誓ったという話だ。だから、体に茅の輪と「蘇民将来之子孫」というお札を付けたら、疫病から守られるそうだ。(ちなみに、私がそうしたら効果があるのだろう。それとも、私が蘇民将来の子孫ではないことは、神様にさえバレバレなのではないか。)疫病平癒に関わるこの神様は、スサノオだと名乗るので、この伝説が祇園さんと合流して、ご祭神がスサノオになったと言われる。蘇民将来のお札は平城京には見つからないが、平安京にも平安京の直前の長岡京からも発掘されたそうだから、祇園さんが隆盛になった時にはもうスサノオと疫病の伝説はよく知られたそうだ。

結局、祇園信仰は、10世紀に様々な素材から作られた信仰だと言えるだろう。今もう全国に普及して、祇園祭も京都以外にも見える。私の見方は、祇園信仰で神道の進化の一面が見えることだ。